ティーレマン指揮シュターツカペレ・ドレスデンの「パルジファル」(2013.3.23Live)を観て思ふ

wagner_parsifal_thielemann_2013342音楽さえきちんとしていれば演出などどうでも良いのだとクリスティアン・ティーレマンは語っているそうだ。確かに、音楽ははじめから終わりまで神々しく滔々と流れ、そのいかにもドイツのマイスター的風貌とあわせ、リヒャルト・ワーグナーのめくるめく精神世界を見事に描写する様は圧巻である。
第1幕前奏曲の、天から降る崇高な魂の調べ。そして、第3幕前奏曲の透明でありながら地鳴りの如く唸りを上げる音楽の激烈さに思わず喝采。
しかしながら、残念にもザルツブルク復活祭音楽祭のこの舞台を、僕は手放しで賞賛することができない。
第1幕、幕が上がっての、シュテフェン・ミリングのグルネマンツの容姿にそもそも違和感を覚えるのだ。そしてまたそれは第3幕においても同様。
近未来的(?)、前衛的な舞台美術のせいもあるだろう、しかし何より、パルジファルをはじめとし、この作品の鍵となるグルネマンツやクンドリの容貌がイメージとかけ離れているがゆえの興醒め感が最後まで僕には拭えないのである。

1851年の「友人たちへの伝言」の中でワーグナー自身は次のように書く。

現在のオペラでは、完全にマテリアルとしての効果的な発声器官を具えた歌手が第一の地位を占めているのに対して、演技者は二義的な位置、悪くすると完全に付随的な役割を当てがわれている。これに対する公衆もそれ相応の存在であって、もっぱら聴神経の感覚的な欲求の充足だけを求めていて、劇的表現を楽しむことなどほとんどまったく眼中にないのが実情である。ところが私の要求はそれと反対の方向を目指していた。私がまず第一に求めていたのは演技者であり、私の考えにある歌手は演技者を助ける存在でしかなかった。
ワーグナー著/三光長治訳「友人たちへの伝言」(法政大学出版局)P329

当時から世間はやはり「歌」ありきだったよう。しかし、ワーグナー自身はそれに意義を唱えつつも、現実問題としてそれを回避すべき術、すなわち自身の理想を叶える方法を持ち合せていなかった。何より歌と演技を兼ね備えた万能な逸材などそう簡単には出ないのだろう。

ザルツブルク復活祭音楽祭2013
・ワーグナー:舞台神聖祭典劇「パルジファル」
ヨハン・ボータ(パルジファル、テノール)
シュテフェン・ミリング(グルネマンツ、バス)
ヴォルフガング・コッホ(アンフォルタス/クリングゾル、バリトン)
ミヒャエラ・シュースター(クンドリ、ソプラノ)
ミルコ・ボロヴィノフ(ティトゥレル、バス)、他
バイエルン国立歌劇場合唱団
ザルツブルク音楽祭&劇場児童合唱団
クリスティアン・ティーレマン指揮シュターツカペレ・ドレスデン
ミヒャエル・シュルツ(演出)(2013.3.23Live)

例えば、「聖金曜日の奇蹟」の場。
クンドリについて離れない亡霊の如くの「イエス・キリスト態」の黙り役は、何やら登場人物の深層を具現化したものだろうが、なくもがな。挙句はパルジファルの悟りのところで彼の亡霊とクンドリが接吻をし、もう一対の(おそらく自己犠牲的)イエス・キリストは倒れ込むシーンの余計な詮索を呼んでしまう無意味な意味深加減。ミヒャエル・シュルツの演出には数々の疑問が残る。
それでもワーグナーの音楽はやはり美しい。グルネマンツによるパルジファルの洗礼シーンの(音楽の持つ)力と美しさは圧倒的(もちろんそれは、ティーレマンとシュターツカペレ・ドレスデンの力量による)。

これぞ、わが最初の務め。
洗礼を受け
救済者を信じよ!
日本ワーグナー協会監修/三宅幸夫・池上純一編訳「パルジファル」(白水社)P97

 

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