カラヤン指揮ウィーン国立歌劇場の「フィデリオ」(1957.7.27Live)を聴いて思ふ

1950年代のカラヤンの音楽、中でもベートーヴェンはとても自然体で、また音楽的だと思う。
後年の、ぴかぴかに磨き上げられ、角のない丸みを帯びた耳ざわりの、完璧な彫像品のような音楽とはまるで異を呈し、どの瞬間も荒々しく、その分実にエネルギッシュで、聴いていて魂まで鼓舞される。
フィルハーモニア管弦楽団との交響曲全集はその最たる例だが、1957年のザルツブルク音楽祭での「フィデリオ」は、実演でのカラヤンの一部の隙もない解釈の最右翼で、その全身全霊の音楽に100%ついていこうと必死に音符を追うオーケストラや数多の歌手陣共々、実に神々しいモニュメンタルな記録である。
ここには壮年期のカラヤンの自信と確信が明確に刻まれる。
また、ベートーヴェンへの恐るべき愛情にも満ちる。

音楽の流れの中で、わずかな不正確さや不確かさがあると―たとえばディミヌエンド(少しずつ弱く)の開始がほんの少し遅れているのを正そうとすると、雰囲気はもう乱されてしまう。あるいは、ある箇所を適切に流れるようにするには、指揮者の側に余裕がなさすぎることもある。最終的な結果に至るまで、自己批判的でなければならない。(・・・)さてリハーサルでは、そういった点について語り合い、まず技術的な面から改善に努める。(・・・)技術という縛りから解放されるなら、これから始める仕事は(・・・)時代の変遷の中で、自分自身を認識し、実現する試みである。
ヘルベルト・ハフナー著/市原和子訳「ベルリン・フィル あるオーケストラの自伝」(春秋社)P257

リハーサルにまつわるカラヤンの思想は深い。類稀な耳と能力を彼が持っていたお蔭で音楽は常に生き生きと、同時に完璧な音響を発する。おそらく「帝王」になる前のカラヤンは驚くほどの自己批判精神溢れる人だったのだろうと想像する。

・ベートーヴェン:歌劇「フィデリオ」作品72
ニコラ・ザッカリア(ドン・フェルナンド、バリトン)
パウル・シェフラー(ドン・ピツァロ、バリトン)
ジュゼッペ・ザンピエーリ(フロレスタン、テノール)
クリステル・ゴルツ(レオノーレ、ソプラノ)
オットー・エーデルマン(ロッコ、バス)
セーナ・ユリナッチ(マルツェリーネ、ソプラノ)
ヴァルデマール・クメント(ヤキーノ、テノール)
エーリヒ・マイクート(第1の囚人、テノール)
ヴァルター・ベリー(第2の囚人、バス)
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団&合唱団(1957.7.27Live)

舞台上で繰り広げられる心理劇の、微妙な呼吸まで聞こえてきそうな臨場感が、何よりこの実況録音の素晴らしさ。例えば、第2幕冒頭、フロレスタンの有名なアリアの前の管弦楽の悲劇的な音楽の意味深さと美しさ。

人の世の春の日に、
幸福は私から逃げ去った。
真実を大胆にあえて言ったばっかりに
報いはこの鎖です。
すべての苦しみに喜んで堪えています。
そして私の道を不名誉のうちに終えます。
アッティラ・チャンバイ/ティートマル・ホラント編「名作オペラブックス③フィデリオ」(音楽之友社)P95

ザンピエーリの歌唱には、暗さよりも明るい未来への希望が感じられるのは気のせいだろうか。まるで最後の「救い」を予期するかのようだ。
カラヤンの棒は終始燃える。特に、フィナーレ前の「レオノーレ」序曲第3番のすごさ!音は劇的にうねり、すべての音が無機質に陥らず、意味深く鳴り響くのである。これには心底痺れる。

立派な妻をえた者は
われらの歌声に声をあわせよう。
夫の救い手であることを歌うのに、
声をはりあげすぎることはない。
~同上書P123

歓喜に震える合唱に、レオノーレは同期する。
この圧倒的フィナーレは、以後、帝王に君臨することになるカラヤンの狼煙のようにも思えなくない。

 

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