自然の中で、そして静寂の中で幾時間もただひたすら自己と対峙する。
おそらくそれは、晩年に完全に聴覚を失ったベートーヴェンが体感していた世界。
目が見えることも、耳が聞こえることも、鼻が利くことも、僕たちにとっては当たり前の事実も実は当たり前でないという真実。
過去何千年という歴史の中で脈々と受け継がれている命を今僕たちは体験しているのである。ならばすべてを心して、そして真剣に取り組まねば。
ベートーヴェンの音楽は崇高でありながら実に俗的。教会と劇場の間に在ったベートーヴェンならではの音楽性は、それゆえに数百年を経た現在にも聴き継がれる代物であった。
歌劇「レオノーレ」は紆余曲折を経て「フィデリオ」に落ち着いた。しかし、ベートーヴェン唯一のこの作品を手放しで認める人は少ない。壮大で深遠な主題を掲げながら、台本含めその音楽にも中途半端な姿勢が否めないから。
そのことは、「コリオラン」についても「エグモント」あるいは「プロメテウス」についても同様で、どうやらベートーヴェンは劇作品に関しては苦手意識があったのかと思われるくらい。なるほど、ベートーヴェンの神髄は言葉にはなく、音楽そのものにあるのだ。
ルドルフ・ケンペを聴いた。
ベートーヴェン:
・歌劇「フィデリオ」序曲作品72b
・「レオノーレ」序曲第3番作品72a
・「コリオラン」序曲作品62
・「プロメテウスの創造物」序曲作品43
・「エグモント」序曲作品84(1957.7.1&9.5録音)
J.S.バッハ:
・管弦楽組曲第3番ニ長調BWV1068(1956.11.27録音)
ルドルフ・ケンペ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
真にメリハリの効いた音楽。その上、血の通った絶妙な有機性。
ケンペのベートーヴェンはうねり、時に咆え、時に静けさに包まれる。どの作品も情景描写が見事で、すべてが手に取るように想像できるのである。
例えば、「エグモント」序曲冒頭の、金切り声を上げるような金管群の甲高い響きに卒倒し、続く緩やかで優しい木管群の響き、さらに弦楽器の堅牢で確固とした音に痺れる。
そして、華麗なバッハの管弦楽組曲第3番。1950年代の、当時流行った重厚で意味深いバッハでありながら、内面の信仰心を決して失わない「美しさ」に快哉を叫ぶ。晴れやかな序曲に、哀感漂うアリアの実直さ。流れる旋律は、さながらケンペの性質を反映するよう。
自然の中で、そして静寂の中で幾時間もただひたすら自己と対峙した。
晩年の聴覚を失ったベートーヴェンの世界を、そして晩年に失明したバッハの世界を思う。
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