デュオ・クロムランクのブラームス交響曲第1番&第4番(4手編曲版)を聴いて思ふ

brahms_duo_crommelynck414個人的なことは知らない。
夫妻が揃って自死、すなわち心中を選んだことを知った後に聴いたこの演奏はやっぱり悲しかった。
あれから20余年。あっという間の歳月だが、彼らのブラームスの、重厚かつ内側に向かうどちらかというと女性的な低音部と整理整頓されつつ飛翔する男性的な高音部(つまり旋律)のひとつになる様を聴くにつけ、もしも彼らが真の意味での「幸福の拡大」をその後も目指していたなら、ピアノ・デュオの世界は何らかの変化を起こしていたのではないかと想像した。

何事も、そして何人も世界の幸せの拡大に貢献せねばならない。

ですから、今がどんな状態であれ、自分の置かれた環境、自分のもつ素質や能力、そして気持ちに沿って、自分の生命を楽しみ、他の生命を育む活動(すなわちダルマ)を行うように心がけていきましょう。そして、どんな状態であっても、何かよいことができるはずであり、そのカルマは必ず返ってきて、幸福を拡大していくことができるのです。
蓮村誠著「『いのち』の取り扱い説明書―ココロも身体も健康になるインドの教え」(講談社)P46-P47

蓮村は、他人の生命を奪うことは「自身と他者の幸福の拡大を阻む行為だから」いけないのだと諭す。その理屈は真に明快でわかりやすい。そして彼は自死についてもこう語る。

自らのいのちを断つ方が、国内で年間に3万人以上もいます。最近では、大人だけではなく、子供までもがいのちを断ってしまいます。
いのちの強制終了、すなわち自殺は、幸福の拡大を目的とするいのちの本質からまったく外れているにもかかわらず、なぜ後を絶たないのでしょうか?
一つの大きな理由は、いのちの取り扱い方を正しく知らないからです。いのちの強制終了は、よい、わるいを超えて、とても悲しいことです。今生のダルマを放棄し、幸福の拡大を体験できぬままいのちを断つことは、とても残念なことなのです。
しかし、いのちは次の生につながっていきます。その生で成し得なかったダルマを果たすために、新しいいのちとなってもう一度生きるのです。そこには希望があると同時に、一度強制終了をしたカルマをもつ人にしかわからない、果たせなかったダルマに再び向かわなくてはならない苦しみがあるかもしれません。
~同上書P47

あくまでインド哲学(ヴェーダ)的考え方だが、実に的を射たものだと僕は思う。

デュオ・クロムランク・・・。
音楽家としての二人の関係が終わりを告げたと同時に、夫パトリックは自ら命を絶ったのだという。そして、その後を追うように妻桑田妙子も自ら死を選んだらしい。
おそらく二人にとってはトリスタンとイゾルデ、あるいはロメオとジュリエットならぬ、死による浄化と愛の合一を願っての行為だったのだろうが、でもやっぱりそれは、残念ながら道半ばでのいのちの強制終了であったと言わざるを得ない。

ブラームス:
・交響曲第4番ホ短調作品98(作曲者自身の編曲による4手のための)(1984.5録音)
・交響曲第1番ハ短調作品68(作曲者自身の編曲による4手のための)(1982.11録音)
デュオ・クロムランク(ピアノ)
パトリック・クロムランク&桑田妙子

もちろんこれらは愛するクララとの連弾を想定して書かれたものだろう。管弦楽版に比して、ブラームスの非常に個人的な思いの秘められたことが理解できる。
何と愛らしいベーゼンドルファーの響き。ハ短調交響曲終楽章、有名な主題が提示する直前の静かで祈りに溢れる楽想に思わず唸る。そして、意外にあっさりと弾かれるそのテーマは実に愉悦に満ち、可憐だ。

結論として、ブラームスの交響曲の書法は全くピアノ的だが、他方、彼のピアノ曲の書法はオーケストラ的だということを強調しなくてはならない。
~ライナーノーツ

パトリックのこの言葉にもあるように、まさに彼の交響曲はピアノで演奏されるがゆえのメリットがあり、そのことを如実に伝えるのがクロムランク夫妻のこの録音なのである。なるほどヨハネスとクララの演奏はこれほどに命のこもった演奏だったのかもしれない。

10日、ヨハネスが彼の交響曲全部を私に弾いて聞かせてくれました。私は悲しみ、打ちのめされたことを隠すことができません。というのは、この交響曲は彼の作品において、まさしくヘ短調の五重奏曲、六重奏曲、ピアノ四重奏曲と同等のものに思えるからです。旋律の活気が欠けているように思われますが、その他はきわめて才気に富んだ労作です。
(1876年某月某日クララの日記)
西原稔著「作曲家◎人と作品シリーズ ブラームス」(音楽之友社)P133

素敵だ。人間というもの、何があっても挫けてはならない。

 

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4 COMMENTS

雅之

死生観は、宗教によって、人によって、本当に様々ですね。

島田 裕巳(著)「浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか」(幻冬舎新書)には、こんな記載があります。

浄土教信仰は、来世信仰の一種で、死後に西方極楽浄土に生まれ変わることを願うものである。浄土というとらえ方は、インドの仏教にはないもので、中国から日本に伝えられた。インドでは、輪廻のくり返しによって苦がもたらされることを強調し、生まれ変わりを肯定しない。仏教が渡来してすぐに浄土信仰は生まれるが、それが念仏信仰を伴って流行するのは、平安時代末期からのことである。
~P32

また、本願寺には「神祇不拝(しんぎふはい)」の伝統があり、神棚を祀ったり、神社に参拝することを拒否したりする。また、霊が実在しないという立場をとり、葬儀の際の「清めの塩」を否定する。ただし、門徒には地方の保守的な階層に属する人間が多く、そうした方針が必ずしも徹底されているわけではない。
~同上書P141

他方、靖国神社のホームページ
http://www.yasukuni.or.jp/history/detail.html
では、

我が国には今も、死者の御霊を神として祀り崇敬の対象とする文化・伝統が残されています。日本人は昔から、死者の御霊はこの国土に永遠に留まり、子孫を見守ってくれると信じてきました。今も日本の家庭で祖先の御霊が「家庭の守り神」として大切にされているのは、こうした伝統的な考えが神道の信仰とともに日本人に受け継がれているからです。そして同様に、日本人は家庭という共同体に限らず、地域社会や国家という共同体にとって大切な働きをした死者の御霊を、地域社会や国家の守り神(神霊)と考え大切にしてきました。靖国神社や全国にある護国神社は、そうした日本固有の文化実例の一つということができるでしょう。

とあり、特攻隊や三島由紀夫のことを一瞬思い浮かべたりもしますが、こうした矛盾した双方の死生観を両方受け入れることができるのは、やはり現代日本人の長所といってよいと思います。

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岡本 浩和

>雅之様
「風呂敷文化」というように、日本人はすべてを包み込む特性を持っているようです。
おっしゃるように「矛盾する両方を」受け容れられる点は他の民族にない長所だと僕も思います。

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