エマーソン弦楽四重奏団のショスタコーヴィチ作品122ほかを聴いて思ふ

shostakovich_emerson_quartet423ピエール・ブーレーズが持たなかったもの、いや、おそらくあえて排除したものが情緒だったのではないかと思った。情緒というのはあらゆる感情の発露であり、時には二枚舌的に誤魔化すおどけやユーモアも含むのだが、20世紀の巨匠の中でもドミトリー・ショスタコーヴィチやベンジャミン・ブリテンには明らかに、そして哀しいくらいにそれがあった。

1973年の、ショスタコーヴィチの最後のアメリカ旅行の際のエピソードが興味深い。

彼はピエール・ブーレーズとニューヨーク・フィルハーモニックの演奏会に立ち寄り、コンサート後の宴会に出席した。そこでぎこちない瞬間が生まれた。ショスタコーヴィチが「モダニズム第一の伝道者」と呼ぶブーレーズが、これまで何もいいことを言ったことがないのに、その手に屈んでキスをしたのである。「僕はすごく面食らったよ。手を引く間もなかった」とショスタコーヴィチはグリークマンに報告している。
メトロポリタン歌劇場に「アイーダ」を聴きに行くと、ショスタコーヴィチはより心のこもった尊敬の態度で迎えられた。最後の休憩中に、オーケストラのトランペット奏者たちが、第5交響曲の終楽章の冒頭のフレーズを演奏して彼に敬意を表したのだ。こうしてショスタコーヴィチは、ボックス席に座る偉大な人物として、畏敬の念を一身に集めた。
アレックス・ロス著/柿沼敏江訳「20世紀を語る音楽2」(みすず書房)P464

モダニズムというものが果たして未来志向のことをいうのかどうなのか、そのことは今は横に置く。しかしながら、少なくとも社会主義国家ソビエト連邦にあえぐショスタコーヴィチは、過去を切り捨て、未来を自己中心的に想像し、それを軸に創造活動を繰り広げるモダニストを理解することはできなかったのかも。

1972年8月、ブーレーズは自身のソナタ第2番をネタに次のように語った。

おそらく、古い諸形式を回収しようとしたヴィーン楽派そのものに鑑みて、私はそれらを完全に破壊するという実験を試みたのだと思います。私はこの実験を、第1楽章がかつてそうであったソナタ形式というものの破壊の試み、そしてトローペによる緩徐楽章の分解
の試み、また、変奏曲形式による反復的なスケルツォ形式の解体の試み、最後に、第4楽章におけるフーガ形式とカノン形式の破壊の試みと考えるのです。このように言う私は、あまりにも否定的な言葉を用い過ぎているかもしれません。しかし、「第2ソナタ」には、そのような破裂や分解や分散があるのです。
ピエール・ブーレーズ/店村新次訳「意志と偶然―ドリエージュとの対話」(法政大学出版局)P57

枠があるから自由や飛翔が認識できるのと同様、形式があるゆえ音楽的不協和の美がある。無調が心に染みるのも、一方で確かな調性音楽を知っているからだろう。破壊と創造、分解と融合は表裏一体。

偉大なるショスタコーヴィチを聴く。

ショスタコーヴィチ:
・弦楽四重奏のためのエレジー~歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」作品29第3場のカテリーナのアリアによる(1998.7録音)
・弦楽四重奏のためのポルカ~バレエ音楽「黄金時代」作品22ポルカによる(1998.7録音)
・弦楽四重奏曲第11番ヘ短調作品122(1966)(1994.7&8Live)
・弦楽四重奏曲第12番変ニ長調作品133(1968)(1994.7&8Live)
・弦楽四重奏曲第13番変ロ短調作品138(1970)(1994.7&8Live)
エマーソン弦楽四重奏団
ユージン・ドラッカー(ヴァイオリン)
フィリップ・セッツァー(ヴァイオリン)
ローレンス・ダットン(ヴィオラ)
デイヴィッド・フィンケル(チェロ)

何と美しいカテリーナのアリアによるエレジー。これほどに哀惜深い音楽が他にあろうか・・・。続いて奏されるポルカの愉悦がまた粋。この二面性がショスタコーヴィチのショスタコーヴィチたる所以であり、ブーレーズはたぶん・・・、こういう側面を理解しなかったのだと思う。
また、ヘ短調作品122における本来ならば暗鬱たる音楽をいよいよ解放的に奏するその技術に脱帽。あるいは変ニ長調作品133での凝縮される音の結晶に感動。このあたりからショスタコーヴィチの音楽は一層内に内にと収斂されてゆく。そして、最晩年の境地とはまた異なる別の意味での暗鬱さを湛える単一楽章の変ロ短調作品138こそ当時の作曲家の内なる真実を示すもの。

エマーソンの演奏はあまりにソフィスティケートされている分、ショスタコーヴィチの悲哀を削り取ってしまうようなところもあるが、こういう明朗で快活な演奏も大いにあり。きれいだ。

 

ブログ・ランキングに参加しています。下のバナーを1クリック応援よろしくお願いいたします。


音楽(全般) ブログランキングへ


3 COMMENTS

雅之

>ピエール・ブーレーズが持たなかったもの、いや、おそらくあえて排除したものが情緒だったのではないかと思った。情緒というのはあらゆる感情の発露であり、時には二枚舌的に誤魔化すおどけやユーモアも含むのだが、

少なくとも、曲に秘められた暗号みたいなものにもあまり興味がなさそうですしね。曲をオブジェとして捉える唯物的な嗜好が、ショスタコとどこまでシンクロできたかを想像するのもまた一興ですね。

そのブーレーズが、よくまあ、マーラーの交響曲全集なんかを録音したものだなあと思います(笑)。晩年に近くなりドイツ・グラモフォンと契約してから突然指揮のレパートリーをどんどん拡げましたが、興味はあっても、とてもじゃないけどソ連のショスタコーヴィチにまで手が回らなかったというのが真相かもしれませんね。

もしも晩年のブーレーズがショスタコの交響曲をグラモフォンに録音したら、ハイティンクのショスタコ全集をもっとソフィスティケートさせた感じの仕上がりになったんじゃないでしょうか。エマーソン弦楽四重奏団の演奏と聴後感が近いかも・・・。

返信する
岡本 浩和

>雅之様

>曲をオブジェとして捉える唯物的な嗜好が、ショスタコとどこまでシンクロできたかを想像する

このあたりはほんとに興味深いですね。それにしてもマーラーやったんだkらショスタコまでぜひとも手を伸ばしてほしかったですね。おっしゃるとおりエマーソンの聴後感と近いだろうと僕も思います。

返信する
岡本浩和の音楽日記「アレグロ・コン・ブリオ」

[…] ブーレーズはショスタコーヴィチを毛嫌いしたのか、馬鹿にしていたのか、本当のところはわからない。その芸術も、目指すところも明らかに異なるが、それでもあらゆる楽器を駆使しての人間ドラマという視点だけで捉えると、意外にまったく正反対のものではないように思えなくもない。 […]

返信する

岡本浩和の音楽日記「アレグロ・コン・ブリオ」 へ返信するコメントをキャンセル

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む