僕は1964年に生まれた人間で、その世紀の日本に35年ほど生きていたものだから、18世紀や19世紀の欧州と比較して20世紀のことはとかくイメージしやすい。
そしてまた、例えば自身がまだ生まれる前の20世紀初頭などは、新たに台頭してきたメディアの恩恵もあり、残された様々な記録からこれまた想像は容易だ。
第3幕冒頭の、悲しみに満ちた5番目の間奏曲「月光」の大自然と人々の想念が連関する音楽に作曲家の天才を思う。
歴史と地理と芸術と。しばらく20世紀の音楽を続けざまに聴いてきて思った。どうしてその時代に、しかもその地域でこういう芸術が生まれ得たのかを諸学問を横断して考えることは実に興味深い。それこそセルゲイ・プロコフィエフが「人間の生活を美化し、そして守らなければならず」、「まず作曲家自身が市民でなければならない」と自伝で語るように音楽家もあくまで僕たちと何ら変わることのない人間なのである。
古今東西の音楽語法のごった煮、否、宝石箱、ベンジャミン・ブリテンの歌劇「ピーター・グライムズ」。ヤナーチェクを模倣するような、その独特の言い回しによる音楽は人々の喜怒哀楽の感情を見事に表現し、その上、人間存在の根本に関わる孤独や劣等感、あるいは優越感までもが非常に巧く刻印された傑作。
主人公の生き様、あるいは在り様は、まさに現代の社会に警告を鳴らすよう。
「グライムズ」についてはすべてが曖昧だ。最初は、アリア、二重唱、合唱、その他のきまった形式が詰まった19世紀の伝統的なオペラのように見える。しかしこうした既存の形式は、まるで感情に打ちのめされたかのように、ときとしてばらばらになったり、途中で止まってしまったりする。そうした感情は複雑すぎて歌のなかでは解決できないと、作曲家は分かっていた。これはつねにジャンルの境界線を、それが高いか低いかに関わらず、圧迫するオペラである。民謡、オペレッタ、ヴォードヴィルの歌やアメリカのミュージカル特有の活気がいっぱいに詰まり、またそれと同時に、20世紀の不協和音を噴出させる。
~アレックス・ロス著/柿沼敏江訳「20世紀を語る音楽2」(みすず書房)P442-443
的を射た見解だ。しかしこの雑多な手法こそが、現代社会の個別化過剰による孤立を表現しようとしたブリテンの狙い目でなかったか。自身もホモセクシャルで少数派の立場にいた彼にとって、社会に感じる矛盾を描き、問題提起する術はこういう方法しかなかったのだ(もちろんあらゆる音楽的方法に通暁する天才ならではの完全さなのだけれど)。
・ブリテン:歌劇「ピーター・グライムズ」作品33
ピーター・ピアーズ(ピーター・グライムズ、テノール)
クレア・ワトソン(エレン・オーフォード、ソプラノ)
ジェームズ・ピーズ(バルストロード、バリトン)
デイヴィッド・ケリー(ホブソン、バス)
オーウェン・ブラニガン(スワロー、バス)
ラウリス・エルムス(セドリー夫人、メゾソプラノ)
ジーン・ワトソン(アーンティ、アルト)
マリオン・スタッドホルム(姪1、ソプラノ)
イリス・ケルス(姪2、ソプラノ)
レイモンド・二ルソン(ボブ・ボールズ、テノール)
ジョン・ラニガン(牧師、テノール)
ジェイラント・エヴァンス(ネッド・キーン、バリトン)
ベンジャミン・ブリテン指揮コヴェント・ガーデン王立歌劇場管弦楽団&合唱団(1958.12録音)
さすがに自家薬籠中の、これ以上はあり得ないだろうという演奏。
第2幕冒頭の間奏曲「海辺の日曜日の朝」の神秘的な調べ。あるいは、第2幕第2場への間奏曲「パッサカリア」の主題の明朗さ(序奏部はかなり仄暗いが)。にもかかわらず、このオペラは全編を通じて実に暗澹たる表情を保つ。それは、主人公ピーターの内なる抑圧と劣等感から生じる翳なのだろう。彼はきっと殺人などは起こしていないのだけれど、濡れ衣に対して無言のまま抵抗しない姿勢こそが「男らしい」とでも彼は思っているのか、ともかく作品の隅々まで意味深なのである。
終幕最後のシーンが哀しい。
ピーターが死んだ少年たちに語りかける狂気のモノローグの後ろでは、合唱が彼の名前を79回も歌い続ける!そして、静けさに満ちる管弦楽を伴奏にするバルストロードの言葉は一層重い。
ムート・ホールが見えなくなるまで、漕いでいけ。それからボートを沈めろ。聞こえるか?ボートを沈めろ。さよなら、ピーター。
~同上書P449-450
ピーター・グライムズは殺された。いや、そもそもこの世には存在しなかったのだ。
ブリテンの音楽が無慈悲に、しかし愛情を内在し静謐の中響く。
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>人間存在の根本に関わる孤独や劣等感、あるいは優越感までもが非常に巧く刻印された傑作。
ご紹介の1958年12月録音を、昔聴いた時を思い出し、連想した言葉。
・・・・・・現代ほど複雑な世相はありますまい。
人間個人は疎外され、機構の外にはみ出る。
人間関係は、一見密接した関係のように見えるけれども、
実はこれほど孤絶した状態はない。
私は、これから、
推理小説の枠はもっともっとひろげられ、
大勢の人たちが、現代を、そして、
現代を生きる人間を描いてほしいと願うものであります。・・・・・・
松本 清張「推理小説の発想1959」より
コメントしてから、小説「ゼロの焦点」(1959年12月に光文社(カッパ・ノベルス)から刊行)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%AD%E3%81%AE%E7%84%A6%E7%82%B9
で、犯人 室田佐知子(元は房州勝浦の、ある網元の娘)が、日本海の荒海を小舟で沖に漕いで行くラストシーンは、「ピーター・グライムズ」から着想を得ている可能性があることに気付きました。
>雅之様
>日本海の荒海を小舟で沖に漕いで行くラストシーンは、「ピーター・グライムズ」から着想を得ている可能性がある
確かに!興味深い事実です。
以前新旧のDVDをいただきましたが(その節はありがとうございました)、旧い方のあの映画にこそ「ピーター・グライムズ」に通じるものがありますね。
[…] 歌劇「ピーター・グライムズ」からの「4つの海の間奏曲」は、自然の情景を見事に捉えた、ベンジャミン・ブリテンのセンス満点溢れる傑作だ。洗練された音響のうちに激情眠る土俗性。まるでピーターの闇なる深層と同期するように、時に静かな祈りに溢れ、時に暴発する感情の如く火花散る音楽が展開される。 大自然を描く音詩の客観と、主人公の内面を抉り出す主観の錯綜するドラマ。 この先駆的響きはモデスト・ムソルグスキーのそれに近い。 国家の歴史に素材を見出し、その上で人間の未来を予知したムソルグスキーの天才。 ムソルグスキーの歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」最後の聖愚者の言葉を思った。 […]
[…] ※過去記事(2014年8月14日)※過去記事(2016年1月22日)※過去記事(2020年12月9日)抜粋だが、この録音から半年後のほぼ同一キャストによるアムステルダムでのライヴ演奏も素晴らしい出来。 […]