Simon & Garfunkel “Bridge Over Troubled Water” (1970)を聴いて思ふ

simon_garfunkel_bridge_over_troubled_water人と人とは支え合って生きているものであり、また生きていくものである。
その実体を目の当たりにするたびに、当たり前だが心が動く。
人生に無駄がないことをあらためて知る。そして、すべてがつながっていることも。

僕はいつもつい言葉を探そうとするが、今宵はあえてそういうことをする必要もなかろう。
ともかく感じたことを感じたままにアウトプットすることも時に大切だから。

疲れ果て、惨めな気持ちで
涙があふれ出る時、僕が乾かしてあげるよ。
僕は君の味方だよ。たとえ辛く
友達が見つからない時でも、
荒れた海に架かる橋のように
僕が横たわってあげるよ。
荒れた海に架かる橋のように
僕が横たわってあげるよ。
”Bridge Over Troubled Water”(明日に架ける橋)

他人の課題に介入することなかれとアドラーは言う。それでもこういうことが自然体でできるなら、それは本当に素晴らしい。

Simon & Garfunkel:Bridge Over Troubled Water (1970)

Personnel
Paul Simon (lead vocals, acoustic guitar, percussion)
Art Garfunkel (lead vocals, percussion)
Los Incas (Peruvian instruments)
Joe Osborn (bass guitar)
Larry Knechtel (piano, Hammond organ, electric piano)
Fred Carter, Jr. (acoustic & electric guitars)
Peter Drake (Dobro, pedal steel guitar)
Hal Blaine (drums, percussion)
Jimmie Haskell and Ernie Freeman (strings)
Jon Faddis, Randy Brecker, Lew Soloff & Alan Rubin (brass)
Unknown (strings and woodwinds)
Buddy Harman (percussion)

心躍り、愉悦に満ちる音楽。しかしながら、その歌詞は深い。
祈りに溢れる音楽も、その歌詞にまた癒される。

純粋な観照を通じてとらえた永遠不変のイデア、すなわちこの世界のあらゆる現象にあって、本質的であり永続的である要素を再現するのである。芸術がそのイデアを再現しようとするときの素材に応じて、彫刻になったり、絵画になったり、詩歌や音楽になったりする。では、それらの芸術が生まれてくる源といえば、イデアの認識なのである。そして芸術の狙いはただ一つ、この認識を伝えることである。

芸術を正しく鑑賞するために、鑑賞者はある独特な心構えを身につけなければならないという。それはプラトンが要求していたのと同じ心構え、すなわち個人的な諸々の関心事には超然としているという態度である。そういう態度が身についていれば、個人的な必要性や偏見に汚されることなく、じっと観照するというやり方で、芸術作品を正しく鑑賞することができるというのだ。
アンソニー・ストー著/佐藤由紀・大沢忠雄・黒川孝文訳「音楽する精神―人はなぜ音楽を聴くのか?」(白揚社)P216

上記「芸術の鑑賞において個人的な感情は排せ」というのはショーペンハウアーの解釈だが、今の僕には少々違和感がある。20世紀においてポピュラー音楽が席巻し、それらが一層芸術的価値を付加されるにつけ、大衆芸術こそは個人的な体験とひもづけられると考えるから。

ちなみに、サイモン&ガーファンクルのラスト・アルバムに収録された全11曲には、音楽の様々な「形」が採り入れられる。ペルーのフォルクローレをそのまま流用した”El Condor Pasa (If I Could)”をはじめ、、1969年秋のツアーにおけるアイオワ州エスムズでのライブ収録であるエヴァリー・ブラザーズのカヴァー曲”Bye Bye Love”における音楽の躍動感。名曲”The Boxer”は、何だか哀しい・・・。

 

ブログ・ランキングに参加しています。下のバナーを1クリック応援よろしくお願いいたします。


音楽(全般) ブログランキングへ


2 COMMENTS

雅之

>「芸術の鑑賞において個人的な感情は排せ」というのはショーペンハウアーの解釈だが、今の僕には少々違和感がある。

同感です。
過去にもコメント欄で言及したことがありましたが、たとえば一度も雪を見たことがない南国の熱帯に住み祖国を離れたことがない人に、シベリウスの音楽がどう理解されるか? を想像してもわかります。

返信する
岡本 浩和

>雅之様

そうですよね。
個を超越しない限り、すなわち悟りでも開かない限りショーペンハウアーが言うような鑑賞はできないわけですからね。人間とはつくづく思考と感情の生き物なんだと思います。

それにしても南国の人々にとってシベリウスはどう響くのでしょう?
知りたいところです。

返信する

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む