生と死は意思なのだと思った。
生きていたって死んだような輩もいるし、死んだって未来永劫生き続ける天才もいる。
もちろん本人は1ヶ月後に命を落とすことになろうとは思ってもみなかっただろう。
あるいは、もはや死を覚悟した上での演奏だったのか?
1980年9月15日にビル・エヴァンスが亡くなることを知っている僕たちには、彼の最晩年の演奏はどれも壮絶に聴こえる。人間の認知能力なんていうのはそんなものだ。
それにしてもあれから40年近くが経過するというのに、ビル・エヴァンスが今まさに僕たちの目の前で我を忘れてピアノに向かっている様が容易に想像でき、実はまだ彼がこの世のどこかに存在しているのではないかという錯覚に襲われるほど。
ビル・エヴァンスは決して死んでいない。
私はバルトーク、ベルク、ストラヴィンスキーが大好きです。その音楽が多重調、無調、多重声楽やそれ以外だろうと、関係ありません―でも、何かを伝えていかなくてはならないんです。私がとてもシンプルな方法を用いるのは、私がシンプルな人間だからで、ダンス・ミュージックやその仕事といったシンプルな形から出発し、かなり他の音楽も学んでみたこともありましたが、今は自分の限界がわかっていますし、そのなかでやっていこうと思っています。本当に、もし私の内面から何かを伝える必要性があるのなら、そのなかで表現するのに限界はありません。
それが問題なんです。より情緒的な、創作的―情緒的な問題です。
~ピーター・ペッティンガー著/相田京子訳「ビル・エヴァンス―ジャズ・ピアニストの肖像」(水声社)P311-312
とにかく死の目前まで何かを伝えようとする意思にとりつかれていたことが、晩年の彼のインタビューの言葉から推し量ることができる。身体の自由がいまひとつ利かなくともエヴァンスは気力で音楽を創造した。
Bill Evans Trio Live ’80 (1980.8.9Live)
Personnel
Bill Evans (piano)
Mark Johnson (bass)
Joe LaBarbera (drums)
最後のヨーロッパ・ツアー、ノルウェーのモルデ・ジャズ祭での実況録音。
ポール・モチアン、スコット・ラファロとの最初のトリオと同じくらいの可能性をビルは感じていたという。24歳のマーク・ジョンソンのベース・ソロは
マイルス作“Nardis”におけるジョー・ラバーベラの圧倒的なドラム・ソロに聴衆は歓声を上げる。続く”But Beautiful”でエヴァンスのピアノ・ソロの透明な美しさ。彼が問題提起する「情緒」が見事に横溢するパフォーマンス。
冒頭、自作の”Re: Person I Knew”は、音楽で軽々遊ぶエヴァンスの神髄。それにしても、マーク・ジョンソンの変幻自在のベース・プレイとの絡みは真に崇高。また、ジョー・ラバーベラの生まれたばかりの娘に捧げられた”Tiffany”の陽気なピアノに心癒され、またしても軽快にうねるジョンソンのベースに感動する。
常にこんなテンションで走り続けたとするなら、ビル・エヴァンスは烈しいピアノ・プレイによる自死を選んだようなものなのかも。もちろん彼は本望(本意)だった。
やっぱりビル・エヴァンスは死んではいない。
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>死んだって未来永劫生き続ける天才もいる。
「録音」という電子機械技術に頼った「未来永劫」ですよね。
アナログのマスターテープやLPレコードやデジタル変換データ等も、
少しずつ経年劣化し続け、更に、
オーディオやパソコンといった工業製品の規格に合わなくなって、
いつかは再生不可能になります。
知識というものをもち始めてから、
私たち人間はたかだか数千年の時しか経験していません。
クラシック音楽の歴史は何百年? ジャズの歴史は?・・・
けれども、
天才音楽家も、
迫力があり美しい音の出るオーディオ製品を設計した優れた技術者も、
電子部品工場に勤務する作業者も、生み出す工業製品も、
音楽を自分流に解釈する私もあなたも、
大自然の一部として考えれば、確かに永遠に循環し続けています!
>雅之様
>大自然の一部として考えれば、確かに永遠に循環し続けています!
同感です。
ひとりひとりの心にも永遠に残りますしね。