ヤーコプス指揮コンチェルト・ヴォカーレのモンテヴェルディ「ポッペアの戴冠」(1990.2録音)を聴いて思ふ

monteverdi_poppea_jacobs566妙なる旋律と流れる水の如くの清澄感に脱帽。
クラウディオ・モンテヴェルディ最晩年の歌劇「ポッペアの戴冠」は、麗らかで真に美しい。その音楽は宗教的透明感に満ちる。
ただし、作曲者の手稿本には歌と低音部しか書かれていないそうで、後世の研究者に再構成が委ねられているせいか、どこか人工性を拭えない。
その上、物語はあまりに凄惨で滑稽だ。

俗世界というのは結局すべて駆け引きの中にあるということ。
考える力を与えられた人間は、いつの時代においても徳ではなく得を目指して企て図る。
「終わり良ければすべて良し」と言われるが、果たしてそうか?
プロローグで愛の神が語る言葉に僕は違和感を覚える。

私が美徳をしつけ、
私が幸運を調教する。
この子どもらしい私が
古さや時、
そしてすべての他の神に勝るのだ。

愛は競争などしない。愛とは行為でなく、状態ゆえ。
これは真理とは遠いところにある人間の描いたあくまで俗世ドラマなのである。
モンテヴェルディが人生の最終コーナーで描こうとしたのは、ひょっとすると人間の持つ終わることのない(おそらく自身も超えられなかった)エゴイズムではなかったのか?
貶めや殺人の錯綜する人間模様を経て、最後にネローネと愛人ポッペアが結ばれるが本当に彼らは幸せなのか?仮に思惑通り結婚できたとしても、相当のカルマを残した以上彼らに永遠の幸福は訪れまい。
人間世界はいかにも茶番。ただし、だからこそ面白いのである。

ちなみに、(ルネ・ヤーコプスの編んだ)モンテヴェルディの音楽は崇高だ。

・モンテヴェルディ:歌劇「ポッペアの戴冠」
ダニエル・ボルス(ポッペア、ソプラノ)
ギユメット・ロランス(ローマ皇帝ネローネ、メゾソプラノ)
ジェニファー・ラーモア(ローマ皇后オッターヴィア、メゾソプラノ)
アクセル・ケーラー(ポッペアの夫オットーネ、カウンターテナー)
ミヒャエル・ショッペル(哲学者セネカ、バス)
レナ・ルーテンス(オッターヴィアの侍女ドルシラ、ソプラノ)
ドミニク・ヴィス(オッターヴィアの乳母、カウンターテナー)
クリストフ・ホンバーガー(ポッペアの乳母、テノール)
ギ・ド・メイ(宮廷人ルカーノ、テノール)
ルネ・ヤーコプス指揮コンチェルト・ヴォカーレ(1990.2録音)

例えば、第1幕第12場のオットーネの妻ポッペアとネローネの不倫を嘆くモノローグの素晴らしさ!
アクセル・ケーラーのカウンターテナーの美しさ。
また、第2幕第10場での、オッターヴィアの乳母を演ずるヴィスの老練というか、七変化の声色を使った恨み辛みのカウンターテナーの人間的な歌。

私はこれまでにたくさんのお金を使ってきたのよ。
他人を羨み、
自己嫌悪に陥るわ。
その上、魂は疲弊し、感覚はもはや廃れたの。
年をとってただ骨だけで墓場に向かって歩いているようなもの。

そして、レナ・ルーテンス扮するドルシラはかく応答する。

そんなに不平不満を言わないの!まだまだあなたは生きるわよ。
光輝ある夜明けが過ぎ去っても太陽はまだまだ沈まないから。

何という肯定と希望!
さらには、第3幕第7場、ローマを去らねばならないオッターヴィアの慟哭。
対する皇帝ネローネとポッペアが結ばれる最後の二重唱は最高に美しいのだけれど、やっぱり興醒め。

あなたを見つめ、あなたを欲し、
あなたを抱擁し、あなたとつながる。
もはや悲しみはなく、死さえ超えたのよ。
ああ、私の人生よ、ああ最愛の人よ。

厳しい倫理観を持って観るものでないと・・・。
嗚呼、人間とは難しい生きものだ。

 

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2 COMMENTS

雅之

>厳しい倫理観を持って観るものでないと・・・。
> 嗚呼、人間とは難しい生きものだ。

そう考えると、モーツァルト「フィガロの結婚」は人間の機微の奥底にまで迫り、どれだけ深い傑作だったかを痛感します。

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