クレシェンド第20回ハンドベル定期演奏会ファイナルコンサート

handbell_crescend_20160813予定のプログラムを終えると、下手から和服姿の小さな女の子が足取り鈍く、自分の身体が隠れるほどの大きな花束を抱えて出て来た。そして、徐に指揮者に手渡すと、一礼して恥ずかしそうにそそくさと下がっていった。

アマチュア楽団の凄さは、演奏そのものの熱量はもちろんのこと、一挙手一投足すべてが普通でないことに尽きる。ひとつのコンサートに向けて舞台に上がる全員が、それこそ命を懸けて練習を重ねるのだからそれは当然のこと。アンサンブルの乱れや少々のミスや、技術的なことを超えて迫る圧倒的感動は何ものにも代え難い。

何事にもドラマがある。
太田和男氏率いるクレシェンドによる今日の舞台にもドラマがあった。
第20回目の定期演奏会はファイナルコンサートでもあり、そのせいか指揮者はこれまでの思い出などを最後にたくさん語ってくれた。

そもそも彼がハンドベルに出逢ったのが50余年前。そして、40数年前に初めて一般向けのコンサートを開催したそうだ。その時も、今日と同じく最後に小さな女の子が花束を手渡してくれたようで、しかもその子は成人してクレッシェンドのメンバーとなり、そして今日も舞台に出ているのだと。そのことだけで胸が熱くなるのに、驚くべきは、先程の花束を携えた和服姿の女の子はその彼女のお嬢さんだという事実。
40余年の歴史が一気にひとつになる。
やっぱりすべてがつながっていたのである。

クレシェンド
第20回ハンドベル定期演奏会ファイナルコンサート
2016年8月13日(土)17:30開演
ミューザ川崎シンフォニーホール
太田和男指揮クレシェンド
第1部
・J.S.バッハ:小フーガト短調BWV578
・J.S.バッハ:主よ、人の望みの喜びよ(R.アイヴィー編曲)
・ヘンデル:パッサカリア(W.H.グリフィン編曲)
第2部
・アルビノーニ:アダージョ(K.マッチェズニー編曲)
・バックウォルター:ベルの独り言
・ムソルグスキー:組曲「展覧会の絵」~キエフの大門(M.I.トンプソン編曲)
休憩
第3部
・久石譲:「天空の城ラピュタ」~君をのせて(岡本和子編曲)
・ロイド・ウェッバー:「オペラ座の怪人」~ファントム・オブ・ジ・オペラ(D.E.ワグナー編曲)
・クロード=ミシェル・シェーンベルク:「レ・ミゼラブル」メドレー
第4部
・エンヤ:オリノコ・フロウ(K.マッチェズニー編曲)
・ポール・デズモンド:テイク・ファイヴ(岡本和子編曲)
・レッツ・タンゴ!(岡本和子編曲)
~アンコール
・ミュージカル「キャッツ」~メモリー
・日本の四季(中田章「早春賦」、中田喜直「夏の思い出」「ちいさい秋みつけた」「雪の降る街を」)
・ヘンリー・マンシー二・メドレー
・フランシス・レイ:ある愛の詩

アンコール含め、癒しに満ちた2時間超。これぞアマチュアの底力。
僕はベル(イングリッシュ)というものを侮っていたかもしれない。
ハンドベルは舞台を見ないとその真価は伝わりにくい。大袈裟な言い方かもしれないけれど、まさに天国的響き。26人の奏者が奏でた繊細で透明な音楽に僕は心底感動した。
ちなみに、「小フーガ」もヘンデルの「パッサカリア」も、その複雑な音楽をクレッシェンドの面々は見事に表現していた。コラール・パートをクワイヤ・チャイムが受け持ったバッハの「主よ、人の望みの喜びよ」はとても美しく可憐だった。特に、「キエフの大門」ではシンバルも登場し、原曲の良さをスポイルせず、また決して見劣りなく再現されていたことに吃驚。すべてが目から鱗・・・、だった。
音楽の力はやっぱり凄い。

 

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2 COMMENTS

雅之

>アマチュア楽団の凄さは、演奏そのものの熱量はもちろんのこと、一挙手一投足すべてが普通でないことに尽きる。ひとつのコンサートに向けて舞台に上がる全員が、それこそ命を懸けて練習を重ねるのだからそれは当然のこと。アンサンブルの乱れや少々のミスや、技術的なことを超えて迫る圧倒的感動は何ものにも代え難い。

一般的な話、あるいは内側からの体験として、まったく同感です。
プロの演奏家にとって演奏会は、しがらみのある日常ですが、アマ演奏家にとっては「ハレの日」で、かつ、より自由があり、そこが最大の長所であり短所。音楽以外、趣味や学術、スポーツの世界でも、アマはしばしばプロを超えますよね。

以下、日本大百科全書(ニッポニカ)の解説です。

ルーティーン
るーてぃーん
routine 英語 フランス語

慣習の一種で、日常規則的に繰り返される生活様式、とくに一定の手順で行われる仕事をいう。朝起きてから決まった日課に従って生活し、仕事を済ませ、寝るという過程の全体と個々の作業に、ルーティーンは成立する。その場合、行為の規範は行為者に十分に内面化されているので、行為はいわば無意識的にスムーズに行われるが、反面において惰性に流れ、改善、発展の契機に乏しくなる。そこでルーティーンを批判、刺激するために、これを「ケ・俗」と性格づける「ハレ・聖」の観念と行事が対照的につくりだされている。・・・・・・[千葉正士]

https://kotobank.jp/word/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3-1608358

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岡本 浩和

>雅之様

実際アマオケで活動されていた雅之さんの言葉は本当に実感こもってますね。
「ハレの日」というのはその通りなのだと想像します。
ルーティーンも大事ですが、祭りはもっと大切なのだと思います。

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