神とひとつになる

bruckner_7_wand.jpg部屋という部屋の窓を開放し、空気の通り道を作ってやる。まだまだ風は冷たいものの少しだけ春らしさを感じる陽気の中、気持ちの良い午前中が始まる。

僕は「人間力向上」についてのヒントを教示するセミナーを生業としている。ありふれた日常の中で、自己変革できる術を「脳力」という観点から体感的、理論的にわかりやすく教えるのである。そんな僕が、「自分で教えてはいるものの、僕自身はまだまだできていないです」と謙遜なのか遠慮なのか、あるいは本音なのか人前ではついそのように言ってしまうことがある。たとえそれが謙遜であろうと、自己を貶めるような言葉は吐かないほうが良い。20年もそういう仕事に携わってきて、僕自身が日常で実践できていなければ、教えていることは嘘になってしまう。まさにこれほど説得力に欠けることはないということだ。自らを認めるべし。

お互い深く受け容れ合いたいと誰もが望んでいる。他人も自然ももとは「一つ」でつながっているんだという実感を持った時、人は真に他者と自分自身を受け容れることができる。少なくとも「受容する」という感覚をたとえ一瞬だろうと体感することができる。わずか1時間に満たない時間の中で、人と人が対峙し、目を通して、手の感触を通して、そして想いのある言葉を通して自らを開放し、そして他を感じることで、場の空気は一変する。それまで乱れていた雰囲気があっという間に安定した状態に落ち着く。「開放」って重要。「受け容れ」もだ。

「受容」という言葉に相応しい音楽を・・・。

ブルックナー:交響曲第7番ホ長調(ハース版)
ギュンター・ヴァント指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

第2楽章の永遠に続くように思われる悠久の調べに身を委ねていると、そのクライマックスの部分で「神とひとつになる」ような感覚を呼び起こされる。ブルックナーが後に付け加えたとされる金管や打楽器を採用したノヴァーク版でこの部分を聴くと、その感覚とはほど遠い、せっかくの「夢見心地」が分断されるかのような違和感を僕は覚えてしまう。第7交響曲に限っていえば(他の交響曲でもそうかもしれないが)、「版の選択」は極めて重要な要素になる。その意味においては、ハース版信奉者であった朝比奈隆やギュンター・ヴァントの残した音盤の普遍性(少なくとも第7交響曲に関しては)を僕は信じて疑わない。朝比奈先生の例の聖フローリアンでの不滅のライブ録音が、この音楽の演奏史におけるひとつの通過点でありながら絶対的答えでもあることと僕は確信しているが、その絶対の演奏を一層研ぎ澄まし、もうこれ以上は凝縮できないだろうというところまで突き詰めたのがこのヴァントの演奏だといえないか・・・。肉体から抜け去った霊魂が、まさに「神とつながる」瞬間を感じさせるような・・・。


6 COMMENTS

雅之

おはようございます。
ハース版は、ブルックナーの弟子たちの提案によるらしいと見做せる、打楽器の追加や整合性を欠くと思われるロマン派的テンポ変化を採用していませんよね。だからスコアの書法がドイツ的美学に裏付けられたストイックな厳しさを持つようになり、ハイドン、モーツァルトや、ベートーヴェンのウィーン古典派のスコアに近くなりますよね。
一方ノヴァークはハースが無視した書き込みを、ほとんど“むきになって”採用し、その結果、改訂版のロマン派的な演奏効果やドラマティックな雄弁術の多くが復活しました。ハース版で育ったヴァントや朝比奈がノヴァークに否定的になるのは、こうした歴史的背景が関係していますよね。
ただ、戦時中にドイツで音楽生活を送ったドイツ系の大家たちがハース版に拘り、ユダヤ系の人たちや、戦後の世代がノヴァーク版を用いるというのも、『ブルックナーが、ワーグナーと並んでドイツ人の優位を示す御用作曲家的な扱いをされたこと』『ナチス・ドイツ崩壊との絡みで、ハースが失脚したこと』『ハース版の出版権が東側に残ったこと』『ノヴァーク版は、ウィーン、つまり西側から出版されたこと』などを考慮して論じる必要があるようです。実際冷戦時代には、ライプツィヒが出版元であるハース版は西側では入手しにくかったようですし・・・(以上内容 金子建志著 音楽之友社「こだわり派のための名曲徹底分析 ブルックナーの交響曲」P120を参照しました)。
私もハース版を信奉してるブルックナーマニアですが、この版もまた、ハースの美学が反映された補筆完成版のひとつだとも考えています(テンポ指示など、引き算の修正含む)。第8交響曲では、ブルックナーが書いたと見做せない補筆部分もありますし・・・。
ヴァントの演奏については、まったく同感です。

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trefoglinefan

ヴァントの第7番は、私も聴いて驚きました。とんでもなく美しいと思います。この曲に関してはハース版で演奏すべきですよね。第2楽章のシンバルのことを、ヨッフムは最大のクライマックスと言ったみたいですが、私には余計だと思われます。

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
版の問題というのは本当に深いですよね。金子建志のこういう解説書はとても参考になります。
ただ、僕は専門的なところはよくわかりませんが、これまでブルックナーを聴いてきて「ハース版」の方がしっくりきます。というか、好きです。

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岡本 浩和

>trefoglinefan様
trefoglinefanさんもそう感じられますか!嬉しいです。
>ヨッフムは最大のクライマックスと言ったみたい
そうそう、ヨッフムはそういってますよね。僕も余計だと思います。

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雅之

この曲は実際自分で演奏に参加したことがあるので、もう一言発言させてください。
7番のノヴァーク版は、ハース版の版下に、ブルックナーの弟子たちの提案によるらしいと見做せるロマン派的テンポ指示と、第2楽章の頂点のシンバル・トライアングル・ティンパニなどを追加しただけの単純な代物です。ですから実際の演奏会で使う各楽器のパート譜は、ハース版と銘打って演奏する場合でも、ノヴァーク版の楽譜をその部分だけ直して使うケースが多いです(私が弾いた時もそうでした)。また、申すまでもなく、実際にはハース版で演奏したヴァントや朝比奈先生の演奏でも、接続が自然になるように、楽譜にはない細かなテンポ変化等の隠し味を施しています。
7番には、シューリヒトなどの録音を持ち出すまでもなく、昔から改訂版やノヴァーク版での名演も数多くあります。それらの名演について、ブルックナーの他の交響曲ほど、版の違いに大きな違和感はありません。楽譜のテンポ指示等の取捨選択や変更は、指揮者の裁量に任せるべき事項です。従って7番については、版の違いより指揮者の解釈の違いのほうが余程重要だと、演奏経験上、私は思っております。
(先程の再コメント中、タイプミスによる誤記がありました。お手数おかけいたしますが、削除お願いいたします)

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岡本 浩和

>雅之様
こんばんは。
>7番については、版の違いより指揮者の解釈の違いのほうが余程重要だと、演奏経験上、私は思っております。
なるほど、よくわかりました。実際に演奏経験のある方の意見は貴重ですね。ありがとうございます。

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