定なき空に雨歇みて、学校の庭の木立のゆるげるのみ曇りし窓の硝子をとほして見ゆ。少女が話聞く間、巨勢が胸には、さまざまの感情戦ひたり。或るときはむかし別れし妹に逢ひたる兄の心となり、或るときは廃園に僵れ伏したるエヌスの像に、独悩める彫工の心となり、或るときは又艶女に心動だれ、われは堕ちじと戒むる沙門の心ともなりしが、聞きをはりし時は、胸騒ぎ肉顫ひて、われにもあらで、少女が前に跪かむとしつ。少女はつと立ちて「この部屋の暑さよ。はや学校の門もささるる頃なるべきに、雨も晴れたり。おん身とならば、おそろしきこともなし。共にスタルンベルヒへ往き玉はずや。」と側なる帽取りて戴きつ。そのさま巨勢が共に行くべきを、つゆ疑はずと覚し。巨勢は唯母に引かるる稺子の如く従ひゆきぬ。
「うたかたの記」
~森鷗外著「阿部一族・舞姫」(新潮文庫)P55-56
久しぶりに森鷗外の「舞姫」や「うたかたの記」を読んだ。
この、いかにも新鮮だけれどすっと心に響かない文語体に手こずりながら、丁寧に文章を手繰ってみたとき、突如視界が開けるようにわかる瞬間の何とも言えぬ爽快感。
果たしてそれは、アントン・ブルックナーの交響曲に通じるものだと僕は思った。
久しぶりにエリアフ・インバルの交響曲第0番を聴いた。
この、ブルックナーが「全然通用しないもので、単なる試作」と卑下した交響曲は、実際には交響曲第1番より後に作曲されたもので、楽想から全体の構成から実にコンパクトかつ有機的に連関を持つ代物であり、その上、インバルがとても見通しの良い解釈を試みているものだから、繰り返し聴く度に新しい発見があることが本当に素晴らしい。それこそ「突如わかる爽快感」。
・ブルックナー:交響曲第0番ニ短調
エリアフ・インバル指揮フランクフルト放送交響楽団(1990.1録音)
特に、今の時期に相応しい、新緑の森林を髣髴とさせる第2楽章アンダンテの美しさ。
金管やティンパニが使用されず、静謐に紡がれるこの音楽は、後年のブルックナーに負けず劣らず聴く者を癒す。また、第3楽章スケルツォは明らかにブルックナーのそれ。そして、ほぼアタッカで奏でられる終楽章モデラート―アレグロ・ヴィヴァーチェには、交響曲第4番終楽章の森羅万象に通じ、神々が宿るよう。
洗練されたフランクフルト放送響の類稀なアンサンブルの力量と、壮年のインバルの全体観に舌を巻く。
嗚呼、委くここに写さんも要なけれど、余が彼を愛づる心の俄に強くなりて、遂に離れ難き中となりしは此折なりき。我一身の大事は前に横りて、洵に危急存亡の秋なるに、この行ありしをあやしみ、又た誹る人もあるべけれど、余がエリスを愛する情は、始めて相見し時よりあさくはあらぬに、いま我数奇を憐み、又別離を悲みて伏し沈みたる面に、鬢の毛の解けてかかりたる、その美しき、いぢらしき姿は、余が悲痛感慨の刺激によりて常ならずなりたる脳髄を射て、恍惚の間にここに及びしを奈何にせむ。
「舞姫」
~同上書P20
時に聴くブルックナーの音楽の美しさに惚れ惚れとする。
何という愛らしさ。
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「明治村」が好きで、季節のよい時期、毎年のようにを訪れているのですが、ここの「森鴎外・夏目漱石住宅」には、毎回欠かさず入ってみます。
http://www.meijimura.com/enjoy/sight/building/1-9.html
鴎外は、ここに移り住む同じ年の1月、処女作小説「舞姫」を発表、この家では「文づかひ」等の小説を執筆し、文壇に入っていったそうで、一方、漱石は、この家から、処女作小説「吾輩は猫である」の他、「坊ちゃん」「草枕」等の名作を世に送ったそうです。
鴎外ファンにとっては第0番、漱石ファンにとっては第1番的な「聖地」とでもいえましょうか(笑)。
なお、広大な敷地の「明治村」は、貴重な文化財の宝庫であり、映画やテレビドラマのロケ地としても数々使用され、興味が尽きません。何回訪ねても新しい発見があります。
http://www.meijimura.com/enjoy/point/self/
>雅之様
明治村は中学だったか高校だったかのときに行って以来です。
当時のことは残念ながらまったく覚えておりません。
しかし、こうやって示唆いただき、サイトを見てみるといろいろと興味深い施設ですね。
機会を作ってまた訪れてみたいと思います。
ありがとうございます。
>鴎外ファンにとっては第0番、漱石ファンにとっては第1番的な「聖地」とでもいえましょうか
お見事!!