相手の立場に立つということ

bach_maisky_1985.jpg上野からの道すがら上空を見上げるとまん丸の月。夕べの満月は至極美しかった。久しぶりに聴いたチャイコフスキーの音楽の美しさに心を奪われ、10月にしては少々高い温度の空気にえもいわれぬ開放感を感じながらゆっくりと家路に就いた。
昨日の日記に対し、今朝いただいたコメントを見て、まだまだ自分の底の浅さに愕然とした。そして、物事を360度様々な観点からとらえてから物を申す、判断することの大切さをあらためて感じさせられた。僕のは、ただその時に自分が感じたありのままを無闇に垂れ流しているようなもので、実はあのコンサート自体が、ウィリアム・ウーという不世出のテノール歌手の追悼の意味を込めたものであり、近親者、あるいは彼を知る人、長いファンの方々の側から考えたとき、思い出深い舞台の数々が映し出されたフィルムは当然感動的であったろうし、この時期に文化会館の小ホールで開催する意味合いが十分にあったことが理解でき、少しばかり恥ずかしさでいっぱいになった。

相手の立場に立つということ。まさに、言うが易し行うは難し。
ホスピタリティーという言葉がセミナーでも企業研修でも至る場所で矢鱈に使われるようになった。「相手を想う気持ち」というのはスキルだろうか?否、それは人から教わり、少なくとも座学で体得できるものではないと僕は思う。人の話に共鳴し、共に喜び、共に泣き、そして一緒になって怒り、喧々諤々と議論を交わす、そういうような関係作りがその基本にはある。そういうコミュニケーションなくして「人を想う気持ち」など醸成されるはずもない。しかも、「相手に共感する」という力そのものがスキルではないのである。「共感力」というのは、言うなれば質量共レベルの高い出逢いと交流-「いかに人間と触れ合い、深く交わってきたか」-をいかに多くもったかに左右されるものだと僕は思うのだ。

人は他者と深く交わることを恐れる生物である。なぜ恐れるのか?相手に認めてもらえるか、受け容れてもらえるか不安だから。そういう不安は結局いつまで経っても消えることはない。

ちなみに、人間のもつ「不安」というものをテーマに夥しい映画を残したイングマール・ベルイマン監督には「叫びとささやき」という深層心理を抉るような傑作映画がある。
不治の病に罹り、療養中の次女アングネスを看護する長女カーリンと三女マリーアの姉妹と、子どもを亡くした忠実な召使アンナの三人三様の言動、そして心理を軸に「人間」というものの浅薄さと奥深さが同時に描かれてゆく様は見事としか表現しようがない。赤を基調とした映像美も極めつけ。そして、カーリンとマリーアの確執の様を捉えたシーンにはバッハの無伴奏チェロ組曲第5番から「サラバンド」が流れる。

J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲第5番ハ短調BWV1011(1984年)
ミッシャ・マイスキー(チェロ)

数あるチェロ組曲全集の中で、いまだに随一だと考えるアルバムは、20数年前にマイスキーが録音したこの音盤である。カザルスよりもロストロポーヴィチよりも、あるいは同じマイスキーの新録盤よりも圧倒的に僕にとって「落ち着く」のである。
今日は、先年発売されたピエール・フルニエの1972年の東京ライブも久しぶりに聴いてみた。おそらく一切の編集のない当日のありのままの音を再現した音盤なのだろうと想像でき、一期一会の緊張感はある。ただし、如何せん録音の硬さが耳について残念ながら十分に音楽を楽しめない。記録としては大いなる価値を持つ音盤であると思うが、バッハの宇宙に身を浸したい時にこれは不向きである。

一転、今日は朝から曇天、夕方からは降雨。「変わりやすいのは女心に秋の空」というが、いつまで経っても変わらないのは、バッハのもつ普遍性だろうか。自然で、美しい・・・。


7 COMMENTS

雅之

こんばんは。
バッハの無伴奏チェロ組曲のマイスキー旧盤、私も高く評価しております。何回聴いても新盤より私の波長にも合います。
ところで、この曲集のピリオド・アプローチは近年の研究で、肩(イタリア語でスパッラ)から吊るして、ギターのように構えて弾く、ヴィオラ・ダ・ポンポーザ(ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラ、肩掛けチェロ)のために書かれたという説が有力になっているのをご存じですか?
※参照 コロムビア ミュージックエンタテインメント  寺神戸亮さん関連のサイト
http://columbia.jp/artist-info/terakado/special.html
http://columbia.jp/artist-info/terakado/COGQ-32-3.html#movie/
今までのピリオド・アプローチの標準・常識とされてきたビルスマ等の演奏が、これで史実的には全否定されるのでしょうか? ちょっと興味深いところですね。
また、それとは別な話ですが、「レコード芸術」10月号 新譜月評(P111)では宇野さんが、オーケストラがヴィブラートをかけ始めたのは1920年頃、それが世界中に行きわたったのは35年頃という現在の常識に、私と同じく疑問を呈しておられます。
10年後、20年後のピリオド・アプローチの「常識」は、果してどうなるのでしょうね? 最近「常識」について、いろいろ考えさせられます(笑)。

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岡本 浩和

>雅之様
こんばんは。
>ヴィオラ・ダ・ポンポーザ(ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラ、肩掛けチェロ)のために書かれたという説が有力になっているのをご存じですか?
そうそう、何ヶ月か前の「レコ芸」にもその話題が載っていたと記憶します。ただし、この音盤は未聴です。
>今までのピリオド・アプローチの標準・常識とされてきたビルスマ等の演奏が、これで史実的には全否定されるのでしょうか? 
うーん、それはどうでしょうかねぇ。説はいろいろあっていいと思うので、それこそどんな角度のアプローチも良しとします(笑)。
>宇野さんが、オーケストラがヴィブラートをかけ始めたのは1920年頃、それが世界中に行きわたったのは35年頃という現在の常識に、私と同じく疑問を呈しておられます。
僕も同じくこれに関しては疑問ですね。
>最近「常識」について、いろいろ考えさせられます(笑)。
「常識」というのはどんなものでも一部の権威ある方が決めたものでしょうからね。あまり意味はないと思います(笑)。

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ザンパ

先日の日記拝読させていただきました。批評って難しいですよね。
でも自分の持っている材料を総動員して責任持って書けばいいのではないでしょうかネ?
批評の難しさ・・・・この無伴奏チェロ練習曲に、私、筆が止まります(悪い意味で)。スペインの古本屋で眠らせておけばよかったのではないかと・・・。

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ザンパ

連投すいません。
>雅之さん
常識って難しいですよね。演奏者の常識と、聞き手の常識がこんがらがって、今じゃ何が何だか(笑)。
そんな時ワタシは、アインシュタイン「常識とは18歳までに集めた偏見のコレクションである」という言葉を思い出して静かに合掌しますヨ。

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岡本 浩和

>ザンパ様
こんばんは。
>自分の持っている材料を総動員して責任持って書けばいいのではないでしょうかネ?
確かにおっしゃるとおりですね。感じたまま、それしかないです。
>この無伴奏チェロ練習曲に、私、筆が止まります(悪い意味で)。
そうなんですか!なるほど、そういう風に感じる方もいらっしゃるんですね。勉強になります。十人十色、どんなものでも人によって感じ方が違うということが面白いですね。という意味では普遍的なものなどないのかもしれません。
>アインシュタイン「常識とは18歳までに集めた偏見のコレクションである」という言葉
この言葉も見事です!ありがとうございます。

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雅之

>ザンパ様
おはようございます。
アインシュタインの「常識とは18歳までに集めた偏見のコレクションである」は名言ですね!
デカルトも「常識とはこの世でもっとも広く分配されている日用品である」と言ってますしね。
少なくとも芸術においては、「常識」は貶し言葉ではあっても、褒め言葉ではないですよね(笑)。

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アレグロ・コン・ブリオ~第3章 » Blog Archive » 昔のマイスキーは良かった

[…] J.S.バッハ:ゴルトベルク変奏曲BWV988 ~グレン・グールドの思い出に(シトコヴェツキー編曲による弦楽三重奏版) ドミトリー・シトコヴェツキー(ヴァイオリン) ジェラール・コセ(ヴィオラ) ミッシャ・マイスキー(チェロ) 僕は変に自分を主張しすぎない謙虚な昔のマイスキーが好き。無伴奏チェロ組曲然り、新盤はともかく自分の色を出し過ぎていて、バッハを聴くというよりマイスキーを聴くという感じか。何よりこの「ゴルトベルク」の特長はシトコヴェツキー自身が主導権を握っているところが良い。 […]

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