1954年5月16日の、クレメンス・クラウスの急逝がなければ、その後のバイロイト音楽祭は随分変わったものになっていたかもしれない。ヴィーラント・ワーグナーのいわゆる「新バイロイト様式」と呼ばれる演出に不満をもってバイロイトを去ったハンス・クナッパーツブッシュに代わって、1953年の「指環」の指揮を任されたのがクラウスその人。
速めのテンポでありながらドイツ的重厚さを失わない、類い稀な名演奏。
「ワルキューレ」第2幕第1場の、ブリュンヒルデを演じるアストリッド・ヴァルナイの恐るべき充実した、そして巧みな歌唱が実に素晴らしい。
お父様、さあ覚悟して!
山の神の急襲ですよ。
奥方のフリッカが、
羊の車に乗って近づいて来ます。
まあ!金の鞭を振り回しているわ!
可哀相な羊は恐怖にあえぎ、
車輪は軋んでいる。
彼女は怒って、小言を言いに来る!
そんな夫婦喧嘩には居あわせたくありません。
好きなのは勇敢な男の戦いだけ。
~井形ちづる訳「ヴァーグナー オペラ・楽劇全作品対訳集―《妖精》から《パルジファル》まで―」(水曜社)P69
その後の、フリッカに扮するイラ・マラニウクとハンス・ホッターの知的なヴォータンの絡みの、何とも絶妙な心理を突く各々の歌唱と、オーケストラの響きの充実度は、いかにこの年のバイロイトの指環がすごかったかを示すもの。
「ワルキューレ」第2幕は、物語の背景や登場人物の関係性が具に語られる重要な幕であるが、幕全編を通じて濃密な音楽が奏でられ、中でも第4場のジークムントとブリュンヒルデのやり取り、あるいは第5場のジークムント(ラモン・ヴィナイ)、ジークリンデ(レジーナ・レズニック)、そしてフンディング(ヨーゼフ・グラインドル)の三つ巴など、この日の聴衆がまるで金縛りに遭うかの如く集中して聴いている様が、幕が下りた直後の一瞬の空白を置いての拍手から読みとれる。筆舌に尽くし難い素晴らしさ。
・ワーグナー:楽劇「ワルキューレ」
ハンス・ホッター(ヴォータン、バリトン)
イラ・マラニウク(フリッカ、メゾソプラノ)
アストリッド・ヴァルナイ(ブリュンヒルデ、ソプラノ)
ラモン・ヴィナイ(ジークムント、テノール)
レジーナ・レズニック(ジークリンデ、ソプラノ)
ヨーゼフ・グラインドル(フンディング、バス)
ブリュンヒルト・フリートラント(ゲルヒルデ、ソプラノ)
ブルーニ・ファルコン(オルトリンデ、ソプラノ)
リーゼ・ソレル(ヴァルトラウテ、ソプラノ)
マリア・フォン・イロスヴェイ(シュヴェールトライテ、アルト)
リゼロッテ・トーマミュラー(ヘルムヴィーゲ、ソプラノ)
ギゼラ・リッツ(ジークルーネ、ソプラノ)
シビラ・プラーテ(グリムゲルデ、アルト)
エリカ・シューベルト(ロスヴァイセ、ソプラノ)
クレメンス・クラウス指揮バイロイト祝祭管弦楽団(1953.8.9Live)
また、第3幕冒頭の、急先鋒のオーケストラとワルキューレたちの雄叫びの饗宴に心奪われる。
そして、第2場でのヴォータンの怒りに対するブリュンヒルデの観念の様子に目には見えない絆を思うのである。
ブリュンヒルデ
私はここにいます、お父様、罰をお与えください!
ヴォータン
まず第1にわしはお前を罰しない。
お前は自ら、自分の罰を作った。
わしの意志によってのみ、お前は存在していた、
それなのにお前はわしの意志に反することを望んだ。
わしの命令だけをお前は実行していた、
それなのにわしの命令に反して自ら命令を下した。
お前はわしにとって最愛の娘だった、
しかしわしに反することを望んだのだ。
~同上書P97-98
本来、神々は罰など与えないもの。
ブリュンヒルデは自省し、進んで自身を封印する。
最終場の、有名な「ヴォータンの告別」のシーンにおける壮絶なオーケストラとハンス・ホッターの情感こもる哀しくも劇的な絶唱に感無量。
さらば、勇敢な素晴らしい子よ!
お前は、わしの心の最も聖なる誇りだ!
さらば!さらば!さらば!
わしはお前を遠ざけねばならない。
もはや愛情を持って
お前を歓迎することは許されない。
~同上書P103
「ローゲ、聞け!耳をすませ!」の直前の、管弦楽による間奏の何とも豊饒かつ心のこもった意味深い音楽はクラウスの真骨頂。怒涛の拍手喝采。
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>お父様、さあ覚悟して!
山の神の急襲ですよ。
奥方のフリッカが、
羊の車に乗って近づいて来ます。
まあ!金の鞭を振り回しているわ!
・・・・・・・「カミさん」という言葉、何気なく使っている人が多いと思いますが、いったいどんな由来か知っていますか? 諸説あるそうですが、有力な一説に、昔の人は自分の妻のことを「山の神」と呼んでいたことから、親しみをこめて「カミさん」に変化したといわれています。妻を「山の神」と呼ぶ例は、古くは室町末から近世初期の狂言を集めた書物に見られますが、なぜ自分の妻のことを「山の神」と呼んでいたのか・・・?
自然と共に生きてきた日本人は、昔から「山」を神聖なものとしてあがめてきました。畑が豊作に恵まれるのは山の神のおかげであり、洪水や土砂崩れなどの自然災害は山の神を怒らせたためだと信じられていました。人々の精神に多大な影響を与える「山」。それは、万物を生みだす源であり、すべてを受けいれる「母」のような存在であることから、「山の神=女性神」として信仰されていました。こういった文化的な背景から、口やかましい妻のことを、ちょっぴり皮肉も交えて「うちの“山の神”が・・・」などと呼ぶようになったそうなんです・・・・・・ですって。
サイト
http://www.nhk.or.jp/po/zokugo/266.html
より
くわばらくわばら・・・。
>雅之様
これまた貴重な知識をありがとうございます。
勉強になりました!