リヒャルト・ワーグナーの処女論文「ドイツのオペラ」(1834年)。
近来のドイツのオペラ作曲家の中ではウェーバーとシュポーアがすぐれているが、彼らの才能も劇的な分野に関しては十分とはいえない。ウェーバーの才能は完全に抒情的だったし、シュポーアのそれはエレジーに向いていた。そのために各自の才能をはみ出した領域では二人とも変則的な手段を技巧的に用いて、自分たちの資質に欠けたものを補わなければならなかった。
三光長治訳「ドイツのオペラ」(1834)
~三光長治監修「ワーグナー著作集1 ドイツのオペラ」(第三文明社)P11
ウェーバーの抒情という表現は実に的を射ていると思った。
そしてワーグナーは、別の論文でもウェーバーについて次のように書く。
カール・マリーア・フォン・ウェーバーの「歌手の個性というものは、一つ一つの役に思わず知らず彩りをそえるものだ」という言葉は至言である。軽快で変通自在の喉の持ち主と、堂々とした声音の持ち主とでは、同一の役柄を歌っても表現はまったく違ったものになる。一方が他方よりも活気において格段に優れているということは確かだろうが、両者が作曲家の示した情熱の階調を正しく把握し再現したのであれば、いずれ劣らぬ満足を彼に与えることができる。
高辻知義訳「パスティッチョ」(1834)
~同上書P26-27
オペラにあって歌手の役割は実に大きい。
1810年、短期間で書き上げられた歌劇「アブ・ハッサン」。
ウェーバーの至言通り、ここでは稀代の名歌手たちが競い合うように歌唱を披露しているところが興味深い。
あらすじ
借金で首が回らなくなったアブ・ハッサンは、家族が死亡すると葬儀費用と葬儀用の衣裳が支給されることを思い出し、妻のファティーメと示し合わせ、それぞれが死亡したことにして二重の支給を受けようと企む。一方、ファティーメにお熱をあげる両替屋のオマールは、借金を棒引きする見返りに何とか思いを遂げようとするものの、のらりくらりとかわされてジリジリしている。首尾よく二人分の見舞金をせしめたアブ・ハッサンだったが、首長ハルーンとその妻ゾベイーデが確認のため自分の家に来ることになり大慌てする。二人とも長椅子に横たわっている姿をみたハルーンは当惑し、どちらが先に亡くなったかを当てた者に金貨千枚を与えると告げる。するとハッサンはむっくり起きあがり、先に死んだのは自分でハルーンの威徳で蘇ったと感謝する。続いてファティーメも蘇生し、ハルーンは約束通りハッサンに金貨千枚を渡し、オマールを追放してめでたく幕となる。
~新国立劇場のサイトから
ニコライ・ゲッダのアブ・ハッサン、エッダ・モーダーによるファティーメ、そしてクルト・モルのオマールと、歌手は3名のみで、残りの登場人物はすべて語りだけという特殊な作りの歌劇であり、上演時間は50分に満たないお手軽なもの。
荒唐無稽な(?)物語は横に置き、ウェーバー24歳時に生み出した音楽は確かに素晴らしい。
3分半の、短い序曲は軽快で心地よい響きを醸す。
ハッサン、ファティーメ、オマールによる三重唱「隅々まで探して、探します」は聴きどころ。ウェーバーらしく、歌手の個性を十全に生かし、美しい音楽とともに世界は解放される。
あるいはオマールとファティーメによる二重唱「この大勢の人々を見よ」でのモルの意味深い歌と、モーザーの歌唱の巧みさ。二人の掛け合いの完璧な抒情!
ニルソン ハマリ ドミンゴ プライ グローベ クーベリック指揮バイエルン放送響 ウェーバー 歌劇「オベロン」(1970.3&12録音) ホルスト・シュタイン指揮バンベルク響のウェーバー「魔弾の射手ミサ」を聴いて思ふ フルトヴェングラーの「魔弾の射手」(1954Live)を聴いて思ふ カルロス・クライバーの「魔弾の射手」を聴いて思ふ