いわば後世によって美化されたルネサンス。
ルネサンスというのは人間性の回復をモットーにしたというが、果たして如何に?
実際には共同作業を拒否し、それぞれのプライドをかけた戦いから始まったもの。むしろ、ここから人間の精神性の闘争が始まったのではないのか。そしてあるいは、慈悲の心を失っていったのではないのか。
少なくとも僕たちが現在享受する芸術の多くはあまりに人間的だ。つまり、売れなければ、それによって食えなければ世間からは評価されないもの。残念ながらそこに芸術的価値というのは反映されない。
数世紀後・・・、18世紀の欧州。
当時の劇場は、社交の場であったが、一方で、思想、あるいは信仰の喧伝の場でもあった。
取り扱われる題材も宗教を基としながら政治的な是非が拭い切れないものが多い。
ヘンデルの1711年に初演された歌劇「リナルド」も、まさにとりとめもない物語の中で、キリスト教の優位性を示そうとした作品だろう(最後はそれぞれのカップルが改宗し、収まるべきところに収まるという楽観。そして異教徒であることの困難さ)。
時代の趨勢に抗うことなしに、興行主的計算も兼ね備えていたいかにもヘンデルらしい歌劇。しかし、それでもいくつもの美しいアリアがひしめく、天才ヘンデルの音楽的最高遺産のひとつなのである(ただし、2週間で完成させたというこの歌劇の多くは、イタリア時代のカンタータからの借用だが)。
やはり音楽は言葉を超える。特にヘンデルは特定の色を持たない(と僕は思う)。
ヘンデルに癒される。
3時間を要する他愛もないドラマも音楽、特に美しい数々のアリアを享受する限りにおいて心に優しい。
・ヘンデル:歌劇「リナルド」HWV7a(1711年初稿)
デイヴィッド・ダニエルズ(リナルド、カウンターテナー)
チェチーリア・バルトリ(アルミレーナ、メゾソプラノ)
ダニエル・テイラー(エウスタツィオ、カウンターテナー)
ベルナルダ・フィンク(ゴッフレード、メゾソプラノ)
リューバ・オルゴナソバ(アルミーダ、ソプラノ)
ジェラルド・フィンリー(アルガンテ、バス・バリトン)
クリストファー・ホグウッド指揮アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック(1999.11.19-27録音)
第2幕第4場のアルミレーナのアリア(第22番)「過酷な運命に涙を流し」におけるバルトリの想いのこもった歌に心動く。
あるいは、リナルドに扮するデイヴィッド・ダニエルズの巧みな(第2幕第7場の)アリア(第25番)「私は侮蔑と怒りで」の素晴らしさ。
そして、同じく第2幕第8場のアルミーダのアリア(第27番)「ああ、惨い人、私の涙が貴方に憐れみの情を惹き起こしますように!」の儚さと哀愁。
「リナルド」のロンドン初演は、音楽史を大きく塗り替える事件であった。これを機に、ヨーロッパ主要国の中でオペラの導入が最も遅れていたイギリスが、一夜にして最高級のオペラ供給地へと変身するのである。ヒルは、台本中の女王への献辞で、「これ以後イギリスは、母国イタリアを凌ぐオペラを発信することにあるのです」と高らかに宣言した。
~山田由美子著「原初バブルと《メサイア》伝説―ヘンデルと幻の黄金時代」(世界思想社)P31
歴史の転換点にある「リナルド」は、資本主義の申し子のような作品なのだろう。
そもそも「教え」というものから逃れない限り真の安寧はないのではないか・・・。
神はあくまで自らの内にあるであろうゆえ。
ブログ・ランキングに参加しています。下のバナーを1クリック応援よろしくお願いいたします。
>実際には共同作業を拒否し、それぞれのプライドをかけた戦いから始まったもの。むしろ、ここから人間の精神性の闘争が始まったのではないのか。そしてあるいは、慈悲の心を失っていったのではないのか。
同じ意味で、「国家」という存在もまた、芸術の一種といえるのではないかと思いました。
イギリスがEUを離脱するかもしれないと大騒ぎになっていますが、我々が憧れるヨーロッパだって、富の分配と宗教の問題が解決されない限り一枚岩になれず、真の安寧からは遠そうです。
>雅之様
本当におっしゃる通りだと思います。
老子が説くように、今こそ西洋的二元思考から脱却しなければいけない時代なのだと思います。
[…] ホグウッド指揮アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージックのヘンデル「リナルド」(1999.11録音)を聴いて思ふ […]