心ゆくもの

rachmaninov_3_ashkenazy.JPG「白く清げなる陸奥紙に、いといと細う書くべくはあらぬ筆して、文書きたる」
『枕草子』の「心ゆくもの」という段で清少納言が綴った一説である。白く清らかな上質の和紙に粗末な扱いにくい筆で手紙を書いたものは意外に心地良いもののひとつだと言うのである。わざわざ書きにくい筆を選んで書くことこそによって味わい深さが加味されるということなのだろう。比較という意味では多少下世話な話になるが、僕の周りでも恋愛や結婚の対象として相手を選ぶときに、いわゆる「扱いにくい」女性を選ぶ輩が多いように思う。そう、何でも言うことを聞き、先回りして何でもやってくれる相手は大切な存在なのだが、時に物足りなさを感じるという男が多い。苦労するのは目に見えていても、みんな扱いにくいじゃじゃ馬が好きなのだ。

人生順風満帆に進んできた人は意外に弱い。挫折にも極めて弱い。そういえば新人採用活動の際、エントリーシートの中で「学生時代の苦労話、挫折経験にはどういうものがあるか?」と問う企業が多い。学生時代にどのような失敗経験をし、挫折感を味わい、それをどのように乗り越えたのか、そのプロセスにその人の人間性が滲み出ると考えるからである。行動を起こすということはそこには少なからずリスクが生じる。当然失敗もある。逆に、何もしなければ何も起こらない。ただし、安全ではあるが現状のままである。失敗したって良い。うまくゆかなくて当然なのだから。そういう気概で何事にもチャレンジできる人って素敵である。

音楽史上においてラフマニノフは保守的でロマン主義的な後ろ向きの作曲家と思われることが多いが、実は当時としては意外に前衛的で挑戦的な姿勢を持っていた。そう、彼には「進取の気性」が間違いなくあった。ところが、満を持して発表した第1交響曲の初演の大失敗で(指揮をしたグラズノフのせいだという指摘が一般的だが、聴衆の質に問題もあろう。とはいえ真相は不明)、結果心身症に陥り、しばらく創作活動ができなくなってしまったことは有名な話。その後、ダーリ博士の心理療法にて見事復活を果たすのだが、そういう挫折経験こそがその後の彼の音楽家人生の大きな糧になるのだから、人生に一切の無駄はない(いわゆる「挫折」があのポピュラーなピアノ協奏曲第2番を生んだのだろうし)。

もうかれこれ25年になるか・・・。アシュケナージが弾いたラフマニノフのピアノ協奏曲第3番を初めて聴いたとき、言葉で表現し難い感動を覚えた。久しぶりに、そう十数年ぶりに音盤を取り出して聴いてみたが、何度繰り返してもその記憶が色褪せることはない。隣で聴く妻も学生時代何度も繰り返し聴いたのだと。当時「弾きたい曲」のナンバーワンだったらしい。

ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番ニ短調作品30
ウラディーミル・アシュケナージ(ピアノ)
ベルナルト・ハイティンク指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

ここ最近、ロシア音楽をたて続けに聴き、懐の深い、それでいて感傷的で涙を誘う旋律の宝庫だということにあらためて気づかされた。この協奏曲についても然り。第1楽章冒頭から惹きこまれる。どの瞬間をとってみても一部の隙もない。ラフマニノフの最高傑作だろうな、これは・・・。それにアシュケナージのピアノって不思議な安心感がある。指揮については音盤でも実演でも感心したことが残念ながらないが、ピアノはやっぱり超一流。

本日、6日ぶりに帰京。現実に引き戻されたという感じ。明日からまた慌しい日々が始まる。とはいえ、「新」であり「変化」でもある2010年がスタートするわけだから、気を引き締めて行こう。


2 COMMENTS

雅之

おはようございます。
>失敗したって良い。うまくゆかなくて当然なのだから。そういう気概で何事にもチャレンジできる人って素敵である。
現実的に、昨今の我が国でそれが出来るのは、「失敗しても食べていける富裕層にいる」というのが大前提です。チャレンジを、したくとも出来ないから苦しんでいる人が圧倒的に多いというのが、今の日本の惨状です(諸先輩から聞く高度成長期の話は、180度違っていました)。
失敗したら親のスネをかじればいいや!という甘え無しに何事にもチャレンジする人であれば、心から尊敬します。勿論私など、この条件枠からは疾うに外れ、失格です。自分には厳しくならなくっちゃ、です。
それにしても今の日本、科学技術分野にしろ、芸術分野にしろ、教育分野にしろ、経済的足かせが重く伸し掛かっているのは忌々しきことです。個人は優秀な人材が多くても、国の在り方が国民全員の足を引っ張って、日本を衰退の道に歩ませています。
第二次世界大戦末期の日本で、「物資が無ければ、竹槍で戦え!」と、成功した年長者が若い人に精神論を諭すようなこの空しさ、何とかならないのでしょうか。
ピアニストで、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番が好きな方は多いですよね。もう10年以上前でしょうか、小山実稚恵さんもFMラジオの番組で、この曲が好きだとおっしゃっておられました。
その時の彼女の推薦盤は、キーシン(p)小澤征爾&ボストン響盤でした。
http://www.hmv.co.jp/product/detail/2598633
私は、ご紹介のアシュケナージの盤もキーシン盤も、両方好きです。

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
また「日常」が戻ってまいりました。今年もいろいろとご教示よろしくお願いします。
>個人は優秀な人材が多くても、国の在り方が国民全員の足を引っ張って、日本を衰退の道に歩ませています。
ほんとにその通りですね。国のシステムを一度壊してしまわないと二進も三進もいかないところまできてますよね。
今度お会いした時にはこのあたりをじっくりと語りたいと思います。
>小山実稚恵さんもFMラジオの番組で、この曲が好きだとおっしゃっておられました。
そういうものなんですね。かっこいいですからね、この曲は!
僕もキーシン盤は前に友人に聴かせてもらって感心しました(所有はしてませんが)。

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