QueenとKWEEN

queen_the_works.jpg気がつくと「我(が)」に入っている自分がいた。
ともかく四六時中「自分のこと」ばかり考えているのである。
そういう時は思考がまったく働かない。
もちろん他人に何かしてあげたいなどとは思いもよらない。

人間は生活する中で、自身の身体を維持するために「自己防衛」という本能を与えられている。重要な機能なのだが、過剰になると心身に異常を来す。自分事は4割、あとの6割は他人への想いや感謝に費やすことが自ずとできるようになればどれだけ楽だろうか。

僕は長男である。年子で生まれた妹がいる。得てして第一子というのは損な役回りを預かるものだ。親も決して意図するわけではないのだが、下に対しての保護が厚くなる分、上は圧倒的に欲求不満に陥る。そういえば、子どもの頃、妹と比べて「なにが損だ、なにが得だ」と不満を垂れ流し、よく喧嘩をしていたものだ。そう、自分のことばかり考えていたのである。

要はストレートな交流ができなかった、つまり素直になれなかったということだ。本当はありのままのフィーリングを解放し、ぶつかればすんなりと何事も解決できるのに。

それでも、まだまだ鬱積があるなら、レッド・ツェッペリンやディープ・パープルなどのハード・ロックを目いっぱい音量を上げて聴くといいだろう。久しぶりにクイーン。第6作の「世界に捧ぐ」かとも思ったが、ここは1984年作の「ザ・ワークス」にしよう。嗚呼、懐かしい。東京に出てきた翌年に流行っていたミュージック・ビデオを思い出す。

Queen:The Works

“Radio GAGA”を初めて観たとき、フレディのマッチョでゲイ風の容姿に気色悪さを感じながらも、その音楽の圧倒的な力に打ちのめされた。なんとロジャー・テイラーが作曲してシングルカットされた最初の作なのだということは後で知った。Queenというバンドの凄さは、The Beatles同様4人個々が優れた作曲能力と演奏能力を持っているということである。イギリスが誇るこの稀代の音楽集団も、看板ヴォーカリストのフレディを亡くしたことで厳密には消滅したと僕は思っているのだが、いつだったかテレビでポール・ロジャースを迎えてのQueenを観て、バンドとしては優れているもののあれはやっぱりQueenじゃないなと確信した。やっぱりフレディのあの声じゃなきゃQueenじゃない。”I Want To Break Free”のメンバーが女装してのビデオも悪趣味ながら圧巻だったし、”Hammer To Fall”はとにかくかっこよかった。70年代クイーン初期のまとまり感にはいささか欠けるものの、各々の楽曲は優れモノで、80年代クイーンを代表する名盤だと僕は思う。

ところで、KWEENというトリビュート・バンドがある(あったといった方が正しい)。完璧なコピー、そして抜群の演奏。フレディーエトウの容姿については観るに堪えないものがあるが(笑)、歌はうまい。まるで本当にフレディ・マーキュリーが乗り移ってるんじゃないかと思える瞬間が多々ある。本当にクイーンを愛してるんだろうな、彼らは・・・。
http://www.youtube.com/watch?v=kvNw7MFYFaM

本家本元の”We are the Champions”はこちら↓
http://www.youtube.com/watch?v=xdCrZfTkG1c


3 COMMENTS

雅之

おはようございます。
KWEENというトリビュート・バンド! カッコいい! オヤジの鑑!
それはそれとして、最近、クラシックよりロックのほうが格上ではないかと考えることが多々あります。Queenで考えても、楽曲作り、即興・パフォーマンス、フレディの4オクターブにも及ぶ歌唱、前衛性と幅広い大衆の支持の両立・・・、それだけでも、昔の作曲家が書いた楽譜をただ自分の解釈を加えて演奏するだけのクラシックより、ずっと高度なことをやっていたのではないでしょうか? やはりクラシックは、作曲と演奏が分業になってから、魅力が半減しているのでは? フレディ・マーキュリーもクラシックへの造詣は深かったようですね。
>気がつくと「我(が)」に入っている自分がいた。
それが悪いことばかりだとは微塵も思いません。
クリエーターにしろ科学者にしろ、「我(が)」や「怒り」が、創作や発見・発明の原動力、エネルギーになる場合が多いからです。
具体例を挙げれば、青色LEDを発明した中村修二さんだって、言うなれば「エゴの塊」ですが、その反骨精神が世界に溢れる光を変えて、人類の幸せに莫大な貢献をしています。
「怒りのブレイクスルー」中村修二 著
http://www.amazon.co.jp/%E6%80%92%E3%82%8A%E3%81%AE%E3%83%96%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%AB%E3%83%BC%E2%80%95%E3%80%8C%E9%9D%92%E8%89%B2%E7%99%BA%E5%85%89%E3%83%80%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%80%8D%E3%82%92%E9%96%8B%E7%99%BA%E3%81%97%E3%81%A6%E8%A6%8B%E3%81%88%E3%81%A6%E3%81%8D%E3%81%9F%E3%81%93%E3%81%A8-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E4%B8%AD%E6%9D%91-%E4%BF%AE%E4%BA%8C/dp/4087477045/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1265665364&sr=1-1
http://www.amazon.co.jp/%E6%80%92%E3%82%8A%E3%81%AE%E3%83%96%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%AB%E3%83%BC%E2%80%95%E5%B8%B8%E8%AD%98%E3%81%AB%E8%83%8C%E3%82%92%E5%90%91%E3%81%91%E3%81%9F%E3%81%A8%E3%81%8D%E3%80%8C%E9%9D%92%E3%81%84%E5%85%89%E3%80%8D%E3%81%8C%E8%A6%8B%E3%81%88%E3%81%A6%E3%81%8D%E3%81%9F-%E4%B8%AD%E6%9D%91-%E4%BF%AE%E4%BA%8C/dp/4834250520/ref=sr_1_2?ie=UTF8&s=books&qid=1265665364&sr=1-2
「我(が)」や「自己防衛」なくして、他人に優しくすることなどできません。「善・悪」「明・暗」「光・陰」についての論議もそうですが、コインの裏側を無くすることは不可能です。誰にもある自分の「暗部」に逃げずに目を向けた時、人は自然と謙虚になり、
「実るほど頭の下がる稲穂かな」や、
「勝って兜の緒を締めよ」
だって、それがあればこそ初めて実践することが出来るのではないでしょうか。

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
>楽曲作り、即興・パフォーマンス、フレディの4オクターブにも及ぶ歌唱、前衛性と幅広い大衆の支持の両立・・・、それだけでも、昔の作曲家が書いた楽譜をただ自分の解釈を加えて演奏するだけのクラシックより、ずっと高度なことをやっていたのではないでしょうか? 
確かにおっしゃるとおりですね。フレディもクラシックに造詣が深いところをみると、ロックは「進化形」と考えることもできます。
>「我(が)」や「自己防衛」なくして、他人に優しくすることなどできません。「善・悪」「明・暗」「光・陰」についての論議もそうですが、コインの裏側を無くすることは不可能です。誰にもある自分の「暗部」に逃げずに目を向けた時、人は自然と謙虚になり
そうです!そうなんです。
人間、どう転んでも聖人君子にはなりえないですよね。
まさに一方向からしか観れていませんでした。
ありがとうございます。
Take it easy!
ですね、何事も。

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アレグロ・コン・ブリオ~第3章 » Blog Archive » 手を取り合ってこのまま行こう

[…] 昔、Queenは6枚目の”News Of the World”で終わったものだと思っていた。久しぶりに復活の狼煙をあげたかのような”The Works”を聴いた時も、”QueenⅡ”や”A Night at the Opera”を初めて聴いた時の感動には遠く及ばなかった。それが、Freddieの死から20年を経た今頃、80年代のアルバムの「意味」を再発見した。Paul Rogersと組んだ新生Queenについては聴いていない。しかし、少なくとも本家本元Queenの残した音盤の全てには、それが世の中にどの程度受け入れられたのかという数字は別にして、閃きがあることに気づいた。音がイマジネーションに溢れている。 […]

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