グールドのバッハ トッカータ集Vol.2(1979.5&6録音)を聴いて思ふ

疾走感が堪らない。
音の一粒一粒が立ち、一切の狂いなく、機械仕掛けのように動きながら、しかし、内奥の感性に訴えかける音楽はグレン・グールドの魔法。今さら僕が何かを繰り返すまでもない。どうしたらこんな風に弾けるのだろうと、聴くたびに思う。

たぶん、ストイックなグールドの内側から無意識に発せられたエロスが、音に刷り込まれているのだろう。

ほんとうの予感というものは、われわれの精神が入って行けないような、奥深いところでつくられる。だから、時として、予感がわれわれにさせる行為を、われわれは誤って解釈することがある。
僕は幸福なので、前より優しくなったような気がした。そして僕たちの幸福な思い出によって神聖化された家にマルトがいるかと思うとうれしかった。
死期の近づいた自堕落な人間が、自分ではそうとは気がつかず、急に身の回りを片づけはじめる。彼の生活は一変する。書類を整理する。朝は早く起き、夜も早くから寝る。悪いことをしなくなる。まわりの人々はそれを喜ぶ。だから、それだけに、彼の残酷な死は一層不当に思われる。《彼はこれから幸福に生きようとしていたのに》
ラディゲ/新庄嘉章訳「肉体の悪魔」(新潮文庫)P189

たぶん、グールドは何より死というものを一番恐れていたのではないか。
彼にはあのとき、死の予感というものはなかったかもしれない。周囲がどれだけ彼の早過ぎる死を不当と思っても、グールドは間違いなく寿命を全うした。残された音源の、今にも飛び出しそうな生々しさは、僕たちの心の中でグレン・グールドが永遠に生き続けることを証明する。

J.S.バッハ:トッカータ集Vol.2
・トッカータハ短調BWV911(1979.5.15&16録音)
・トッカータト短調BWV915(1979.6.12録音)
・トッカータト長調BWV916(1979.5.15録音)
・トッカータホ短調BWV914(1963.4.8録音)
グレン・グールド(ピアノ)

死は終わりではないことを、グールドのバッハを聴くたびに思う。
この時点で彼にはもはや3年余りしか生が残されていなかったことを思うと、どの瞬間も後悔ないよう懸命に生きなければならないと教えられる。
何より短調作品の、人生の酸いも甘いも経験したかのような老練の音調が、とても切ない。

愛するマルトの死後、《僕》は心の中で叫ぶ。

マルト!僕の嫉妬は墓のかなたにまで彼女を追いかけ、死後は無であることを僕はねがっていた。実際、愛する人が、われわれの加わっていない饗宴の席に、大勢の人に囲まれてつらなっているのは、耐えがたいことである。僕の心は、まだ未来のことなどは考えない年ごろであった。そうだ、僕がマルトのためにねがっていたものは、いつの日か彼女にめぐりあえる新しい世界ではなくて、むしろ無であった。
~同上書P192

今この瞬間を生きる少年にとって未来などなかったが、愛する人の死によって未来というものを、時間というものを認識してしまった皮肉。グレン・グールドの死によってあの日、僕たちは未来というものを、時間というものをようやく理解することができたのだろうと思う。

永遠のトッカータ。

ところで、新川電機株式会社様のWEBマガジンのコラム第2回が公開された。今回はヘンデルについて書いた。

 

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