僕たちは常にイメージの中にいる。そして、そのイメージはほとんどが過去の囚われであり、学習したことの集積による記憶に起因する。
死の8ヶ月前のフルトヴェングラーのベートーヴェンを聴いて、若きベートーヴェンの意気揚々たる希望の音楽であるにもかかわらず、至極透明で神々しいエネルギーに満たされると感じるのは、僕自身のおそらく思い込みであり、それこそ8ヶ月後に彼が亡くなることを知っている現代から見た「知識」によるものだろう。
人間の想像力などいい加減なものだ。ましてや目に見えない、時間とともに消えゆく音楽への感じ方、あるいは理解の仕方などにひとつの答はない。それゆえ、誰がどんな感想を持ったとしてもすべては正しく、すべては正しくないと言って良いものだ。すなわち気まぐれなもの。
しかしながら、僕は断定する。
本人が8ヶ月後の死を予感していたはずはないのに、これほどに深く、これほどに神聖で、巨大でありながら繊細な交響曲第1番を聴いたことがなかった。特に、第1楽章のアダージョで開始される序奏部の無私なる静けさ・・・。それは、ウィーン・フィルハーモニーとのムジークフェラインザールでの有名なEMIのスタジオ録音においてすら感じなかったもの。シュトゥットガルトの聴衆を目の前にしての演奏は、さすがライブの人といえるフルトヴェングラーの真骨頂である。
第2楽章アンダンテ・カンタービレ・コン・モートの悠然たる歩調は、ベートーヴェンの内なる自信を表すよう。そして、メヌエットでありながら幾分スケルツォ的要素をあわせもった第3楽章の安定感は桁外れ。中間部のホルンの空虚な響きがいかにも現世への別離のように聴こえるのも気のせいか・・・。
さらには、フィナーレ最初の和音の意味深い轟き・・・。主部は遅めのテンポで開始され、すぐさまアッチェレランドにより僕たちを恍惚の世界に誘う。コーダのダイナミクスと加速も鳥肌もの。なるほど、ベートーヴェンはこういう音楽をそもそも書いていたんだ。もし当時実際にこの会場にいたとしたら間違いなく卒倒、失神していたことだろう・・・。それほどに類稀なる名演奏。
・フルトヴェングラー:交響曲第2番ホ短調
・ベートーヴェン:交響曲第1番ハ長調作品21
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮シュトゥットガルト放送交響楽団(1954.3.30Live)
ところで、自作第2交響曲の自演。この音楽は実に冗長で、それこそマーラーなどにかぶれていた高校生当時にさんざん繰り返し聴いたが、さすがに今はもたない(笑)。美しい旋律も頻出し、ロマンティスト、フルトヴェングラーの独壇場なのだけれど、過去の様々な作曲家のイディオムを吸収しての音楽、否、というよりほとんどマーラーやブルックナー、リヒャルト・シュトラウス、あるいはラフマニノフの二番煎じ的な音楽に終始する。あまりに濃厚なうねり。作曲家としてとにかく立身したいという彼の願望と、その思いとは乖離した欠落感のようなものが同居する、不安定な音楽なのである。フルトヴェングラーでなければならなかった理由は何なのか?残念ながらこの壮絶な記録をしてもわからない。
この作曲の仕事こそ、ぼくにとってはなにか遊戯衝動とか虚栄心の発露、ないしはなんらかの意味での自己陶冶といったようなものではなく、生きてゆくうえで真摯かつ決定的に必要なものにほかならず、これなくしては生命と健康さえ維持できないほどのものだからです。
1946年、クルティウス宛手紙
なるほど、本人の弁を見てもわかるように、創造活動について他人がとやかく言うものでもなし、あるいは言えるものではない。フルトヴェングラーにとっては指揮することと同様必然だったということだ。
そういうすべてを理解した上で、いま一度この作品に真摯に向かわねば・・・。
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バレンボイム、朝比奈隆もこの作品を取り上げています。聴いてみると、様々な作曲家のごたまぜみたいな音楽ですね。これなら、フルトヴェングラーの自作自演の方がまだましですね。他の人だとごたまぜだとわかりますね。
>畑山千恵子様
バレンボイム盤は未聴ですが、朝比奈盤はかつて愛聴しました。今ではほとんど聴くことはないですが。
確かにごたまぜです。