リヒャルト・ワーグナーがベートーヴェンの「田園」交響曲にまつわる興味深い言葉を残している。
リヒャルトは昨日、ウィーンのハイリゲンシュタットで出席した式典の話をしてくれた。ベートーヴェンの住んでいた家に、ここで《田園》を作曲したという銘板をはめ込んだという。「ところで」、とリヒャルト。「天才の生み出す作品と実生活の関係を知ろうとする者は、あそこへ行って、あの乏しい自然を見るがよい」。
(1872年1月4日木曜日)
~三光長治・池上純一・池上弘子訳「コジマの日記3」(東海大学出版会)P79-80
そもそも「田園」は、情景を描いたものでなく心象風景であることをベートーヴェンは明言しているゆえ、ワーグナーの言葉は的を射ている。現実世界と想像(創造)世界との乖離。逆に、意志や心がどれほど正確で美しいものなのか物語っているようだ。
あるいは、同年4月14日の「コジマの日記」。
午後、わたしたちは親しくしている近くの農家まで散策。リヒャルトは音楽について語った。初めは《魔弾の射手》、それから《田園交響曲》。「ここにはドイツ人の姿が見てとれる」と彼は言う。「フランス人が牧歌を語っても甘ったるくなるだけだ。ベートーヴェンも《田園》を書いたが、そこに自然をまるごと描いてみせた」。
(1872年4月14日木曜日)
~同上書P186
いかにもドイツ芸術を宣揚するワーグナーの絶賛。
夜分、写譜グループのツンペ氏が来宅。リヒャルトが、ドレスデンに来演したイタリア劇団Italienische Truppeの話をしたことから、話題はロッシーニに移り、特にその《泥棒カササギ》序曲に及んだ。ツンペ氏が笑みを浮かべながら、その曲は聴いたことがないと白状すると、リヒャルトは「いいかね、ロッシーニを超えるのはベートーヴェンだけだ」といきり立ち、このロッシーニの音楽にはイタリアの美女たちや、そのおしゃべりも含めてエレガントな社交界がそっくり描き込まれていると説明した。「ベートーヴェンが書いた音楽は社交界のためのものではない。考えられるとすれば神々の集いだけだがね」。リヒャルトは《泥棒カササギ》の序曲を弾いてみせた。続いてツンペ氏が当地の愛好家協会のために指揮することになっている《イ長調交響曲》。それから《ヘ長調》、そして《田園》から少しばかり。この神々しいほどの作品が二小節も奏でられないうちに、わたしたちはすっかりわれを忘れて聴き入った。
(1873年3月1日土曜日)
~同上書P546-547
そしてまた、ベートーヴェンの唯一無二を顕示し、陶酔するワーグナー夫妻の歓喜。
ベートーヴェンは偉大だ。
現代の視点からすると、このベートーヴェン演奏は少し古臭いものになっているのかもしれない。しかし、堂々たる風趣に、威厳のある音の大伽藍、そして、ベートーヴェンが描いた心象風景をこれほど見事に音化した演奏はなかなかない。それに、録音から60余年を経て、なお燦然と輝く渾身の演奏は、自然体でありながら聴く者の肺腑を抉るという意味で最右翼のものだと思う。
アンドレ・クリュイタンスがベルリン・フィルと録音したベートーヴェンの交響曲全集が懐かしい。フルトヴェングラー亡き後の、カラヤンが後を継ぎ、君臨したベルリン・フィルの、いまだフルトヴェングラー時代の薫香ある響きに、同時にフルトヴェングラーとは異なる、どちらかというとインテンポの表現に舌を巻く。中でも第6番ヘ長調作品68「田園」の粋。
・ベートーヴェン:交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」
アンドレ・クリュイタンス指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1960.3.2, 3 &9録音)
ベルリンはグリューネヴァルト教会でのセッション録音。
外面の効果を狙わず、誠心誠意のベートーヴェンとでも表現するのが良いのかどうか。
特に、第4楽章「雷鳴、嵐」から第5楽章「牧人の歌—嵐の後の、快い、神への感謝と結びついた感情」に反映される自然への畏怖と感謝の念の表現が素晴らしい。
※過去記事(2022年9月2日)クルト・ザンデルリンク指揮バンベルク交響楽団
※過去記事(2019年1月27日)アバド指揮ロンドン交響楽団 ロッシーニ序曲集