男はみんなこうしたもの

beethoven_fidelio_bernstein_vpo.jpg世の中の夫婦の形には、「亭主関白」もあれば「かかぁ天下」というものもある。昔、さだまさしが「関白宣言」という歌を作り、これがまた映画になるほど流行ったことで随分物議を醸した。僕などは子ども心に楽しい歌だなとしか感じなかったし、世間の皆様もそれほど深刻に捉えていなかったのかもしれないが、確かに男尊女卑といえばそのようなニュアンスが漂う歌詞であることは間違いない。後に、さだ自身が「関白失脚」というアンサー・ソングを作り、これがどれくらい流行したのかは知らないが、結婚時「亭主関白」だった夫が熟年を迎える頃には威厳を失墜し、ついには家族の誰からも相手にされなくなるという夫婦のよくあるパターンを見事に風刺しており、僕自身はいずれも非常に気に入っている。

男は基本的に弱い生き物だと思う。それに比べてやっぱり女性は強い。男性も女性も人間は誰しも、そもそも母親の胎内から生まれ出てきているのだからそんなことは当たり前といえば当たり前なんだろうけど。

わが夫婦の関係は間違いなく「かかぁ天下」である。そうした方がうまくゆくと思うから、基本的には反抗しない。何事もいいなり(笑・・・、といっても言い過ぎでない)。とはいえ、決して我慢しているのではない。要は「包容力」なのである。いかに相手を理解し、許し、受容するか。「人間関係」について勉強してきた甲斐があるというもの(笑)。

男が上位に立ち、上から目線で女を操ろうとすればするほど世間様は騒ぐ。世の中が、これだけセクハラだ、パワハラだと叫ぶようになった以上、尚更女性上位という風潮は変わり得ない。

ところで、ベートーヴェンの唯一のオペラである「フィデリオ」はかなりの紆余曲折をもって世に登場した代物である。この夫婦愛と正義をテーマにした舞台は、その音楽を含めベートーヴェンの数多い傑作群に比べるとやや魅力に欠けることは否めない。しかし、投獄されている夫フロレスタンを救うために命を掛ける妻レオノーレ(男装した時の名はフィデリオ)の愛という、夫婦のあり方(いや、人類共通のあり方かな)を問う台本に目をつけたベートーヴェンはやっぱり偉い。さすが「楽聖」。彼はすべてをお見通しだったのだ。

ベートーヴェン:歌劇「フィデリオ」作品72
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)
ルネ・コロ(テノール)
グンドゥラ・ヤノヴィッツ(ソプラノ)
ルチア・ポップ(ソプラノ)ほか
ウィーン国立歌劇場合唱団
レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

米国人のバーンスタインが欧州を席巻するそんなきっかけになった録音だと記憶する(違ったかな?)。この後、ウィーン・フィルとの交響曲全集をリリースするに及びバーンスタインはヨーロッパでの地盤をますます確固としたものにしてゆくのだが、晩年のバーンスタイらしい、いかにも粘着気質の表現とはまた違って、彼が若い頃にもっていたアポロン的側面と、晩年になって獲得したディオニソス的側面とが見事に合体した真の名演奏である。

バーンスタインも奥様を大事にした。夫人の逝去直後は途轍もない喪失感に襲われ、何もできなかったことを後に回顧しているくらいだから、男はやっぱり女あってのもの・・・。


4 COMMENTS

ふみ

>その音楽を含めベートーヴェンの数多い傑作群に比べるとやや魅力に欠けることは否めない。
おっ、嬉しいですね!僕に関してはやや魅力が劣るどころか未だに良さが分かりません。この記事を参考にしながらまた聴いてみることにします。

返信する
岡本 浩和

>ふみ君
おはよう。
ここのところ記事で書いてますが、少なくともベートーヴェンが作品番号をつけて出版したものには、愚作はないとより確信するようになりました。それぞれ意味があると。その意味を推理することがまた音楽を聴く楽しみにも直結します。
「フィデリオ」もどちらかというと凡作扱いされる場合が多いと思いますが、当時の社会情勢やベートーヴェンの個人的状況を把握しながら聴くとより面白く聴けるものです。

返信する
アレグロ・コン・ブリオ~第5章 » Blog Archive » 師弟なるもの、ハイドンとベートーヴェン

[…] 中期のベートーヴェンの音楽をいろいろと聴き込んでゆくうちに、歌劇「フィデリオ」のことが思い出された。この作品、1805年に「レオノーレ」として初演されるも不評で数回しか舞台にかけられずお蔵入り。その後、1806年に改訂を加えて再演されるもやはりいまひとつ。で、それから8年が経過した1814年になって「フィデリオ」として蘇り、ようやく聴衆の拍手喝采を得るというベートーヴェンにしては「不思議な」経路を辿って認知された作品なのだが、単に評判の良し悪しだけでベートーヴェンが引っ込めたり、思い出したように改作したりしたとは考えられない。 もともとフランス革命下の自由精神が横溢する世相の中で書かれたものだし、フリーメイスンであるベートーヴェンが何らかの意図をもって(つまりモーツァルトの「魔笛」のように)創作したのだろうと思えてならないのである。 何より「フィデリオ」=「レオノーレ」は救済と解放がテーマになっているし(このあたりはワーグナーの楽劇にも通じてゆく)、女性が男性を救うという内容自体、2012年のアセンション云々と言われる今の時代にぴったりだと思うので、尚更そういう思いが湧き出づるのかもしれない。 このドラマのうちに秘められる「何か」を掴んでみたいと思う今日この頃(笑)。ちょうど手元には長らくきちんと聴いていなかったガーディナーの「レオノーレ」1805年第1稿と、マルク・スーストロなる指揮者による「レオノーレ」1806年第2稿があるので「フィデリオ」最終決定稿とあわせて比較検討してみようと目論んでいる(しかし、なかなかまとまった時間がとれないので結論めいたものはいつ出るのかわからない・・・笑) […]

返信する

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む