ベルグルンド指揮ヨーロッパ室内管のブラームス交響曲第3番&第4番(2000.5Live)を聴いて思ふ

brahms_1-4_berglundフーゴー・ヴォルフの「第3交響曲」批判は、明らかに首領を失ったワーグナー派が巻き返しを狙ったものだが、よく考えてみると、そこには単なるプロパガンダ以上の意味がこめられているように思えてならない。つまりヴォルフはこの交響曲のなかに、彼自身はっきりとは気づかなかったにせよ、何かそれまでにはない「異質なもの」を嗅ぎとっていたのではないだろうか。たとえば作品の外枠をなす第1楽章と第4楽章は、両方とも「ディミヌエンド」で消え入るように終わる。これは、交響曲に対する既存のイメージから完全に外れていると言えよう。
三宅幸夫著「カラー版作曲家の生涯 ブラームス」(新潮文庫)P146

ヨハネス・ブラームスも間違いなく挑戦者であったということだ。ヴォルフのそれはおそらく個人的な恨み辛みのものに過ぎない。彼はまさに自分以上の革新性をブラームスの中に見たのだと思う。

厚みが薄い分内声部がしっかりと聴き取れ、新たな発見がある。
ハンス・リヒターがブラームスの「英雄」と呼んだ交響曲第3番は、こんなにも愛らしく優雅な一面を持っていたのかと思わず笑みがこぼれた。

内側に蠢く情念は一掃され、透明で明快なブラームス。何より軽量なのが良い。ブラームスの代名詞ともなる厳めしさも影を潜め、ほとんど内緒のメロドラマのよう。
そう、終始音量を抑えた柔らかな音楽。

ブラームス:
・交響曲第3番ヘ長調作品90
・交響曲第4番ホ短調作品98
パーヴォ・ベルグルンド指揮ヨーロッパ室内管弦楽団(2000.5.11-14Live)

ヘ長調交響曲がまるで別の作品のように響く。
ブラームスが確固とした揺るぎのない構成をモットーとしたゆえか、オーケストラが小さくなったとしてもその室内楽的堅牢さは驚くほど変わりない。むしろ、楽器が少ない分、音のそれぞれの要素が一層はっきりし、音楽は息づくのである。
また、初演当初なかなか理解の得られなかったホ短調交響曲の柔和な響きに心動かされる。

ある作品の一部を送らせていただきます・・・これをご覧になって、そしてひとこと意見をいただくお時間はありますでしょうか。一般的に言いますと私の作品は、まことに残念なことですが私自身より好ましく、あまり直すところが見つからないのです。しかし、当地のサクランボは甘味がなくて、食べられたものではありません。
~同上書P150

謙虚と言えばそうなのだが、それほどブラームスは自分に自信がなかったのか・・・。
パーヴォ・ベルグルンドのブラームスは素敵だ。
神経質でなく、また暗澹たるものでもなく中庸のテンポで音楽はオーソドックスに鳴り渡る。何より終楽章パッサカリアの冷たい熱!!

この作品がどのようなものであるのかを示すために、ブラームスはピアノに進み出でて、「カンタータ第150番」の終結部のクライマックスをなすシャコンヌの部分を弾き出した。ブラームスはまず、その作品全体の構成の基礎となっている低音を演奏した。それからシャコンヌの本体に進んだ。ビューローはかろうじて冷ややかな賞賛を送ってこれらすべてに耳を傾け、確かにバッハの知的な構想を示す偉大なクライマックスだが、歌唱声部では望まれる効果を出すことはほとんどできないと異議を唱えた。
西原稔著「作曲家◎人と作品シリーズ ブラームス」(音楽之友社)P162

アレグロ・エネルギーコ・エ・パッショナートはブラームスの最高傑作の一つだろう。
そして、ベルグルンドの演奏はそっけないという意味で、そしてだからこそ熱いという意味でも最右翼であると僕は思う。

 

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2 COMMENTS

雅之

このブラームス全集、その昔コメント欄でご紹介し絶賛した記憶があるのですが、詳細を覚えていないんですよね。ですから、全然別な角度から・・・。

ベルグルンドのブラームスや、ブーレーズのマーラー全集から何かを連想するんだが何だったかなと、ずっと考えていました。そして思い当りました。勢いをなくし、背丈の伸びなくなった現在のセイタカアワダチソウみたいだと・・・。

・・・・・・昭和40年代の繁殖状況は、アレロパシー効果でススキ等その土地に繁殖していた植物を駆逐し、モグラやネズミが長年生息している領域で肥料となる成分(主として糞尿や死体由来の成分)が多量蓄積していた地下約50cmの深さまで根を伸ばす生態であったので、そこにある養分を多量に取り込んだ結果背が高くなり、平屋の民家が押しつぶされそうに見えるほどの勢いがあった。

しかし、平成に入る頃には、その領域に生息していたモグラやネズミが駆除されてきたことによって希少化し土壌に肥料成分が蓄えられなくなり、また蓄積されていた肥料成分を大方使ってしまったこと、他の植物が衰退してしまったことで自らがアレロパシー成分の影響を強く受けてしまったこと等の理由により、派手な繁殖が少なくなりつつあり、それほど背の高くないものが多くなっている。セイタカアワダチソウの勢いが衰えてきた土地にはススキなどの植物が再び勢力を取り戻しつつある。・・・・・・

・・・・・(セイタカアワダチソウは)アレロパシーを有しており、根から周囲の植物の成長を抑制する化学物質を出す。これはcis-DMEという名称で知られるが、この物質はセイタカアワダチソウ自身の成長も抑制する。・・・・・・Wikipedia「セイタカアワダチソウ」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%82%A2%E3%83%AF%E3%83%80%E3%83%81%E3%82%BD%E3%82%A6

まるで、自ら毒を放出しながら周りを抑え成長し、同じ自らの毒にやられスケールが小さくなった、音楽業界やCD業界の縮図のようです。

でも、意外にそれが心地よかったするから複雑です。

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岡本 浩和

>雅之様

この連想の幅の広さが素敵です。
そう言われれば田舎でも背丈のあるセイタカアワダチソウはこの頃見かけなくなっております。

>まるで、自ら毒を放出しながら周りを抑え成長し、同じ自らの毒にやられスケールが小さくなった、音楽業界やCD業界の縮図のようです。
でも、意外にそれが心地よかったするから複雑です。

なるほど!そのとおりですね。
ちなみに、ベルグルンドが亡くなった直後の2012年1月26日の記事にコメントをいただいておりますが、おそらくそれ以前にもいただいていたように記憶します。
http://classic.opus-3.net/blog/?p=8981

ある時点以前のコメントは、当時使っていたMT4の不具合等で失われたので確認できません。
真に残念ですが・・・。

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