アダージョ・ラ・マリンコニア

beethoven_6_alban_berg_q.jpg子どもへの情操教育を云々する気はないが、久しぶりに赤ちゃんのための「音浴じかん」に身を置いて、お客様の反応も含め、物心つく前から「音楽」が人に与える影響が甚大なものであることをあらためて知らされた。クリスマス・シーズンらしく、本日の第1曲目は「くるみ割り人形」から行進曲だったのだが、お母さん方はもちろんのこと、ざわついていた赤ちゃんたちが静まり返って「音を浴びて」いたことにまず吃驚。長丁場ということもあり、そのうち緊張感も解け、いつも通りの雰囲気に戻ってゆくのだが、それでも「非日常」の空間に身を預けてゆったりしている赤子たちの可愛さは半端でなく、泣く子もいれば笑う子、はしゃぐ子様々で、いろんな感情を発露させる、そんな効果が音楽にはあるんだろうなと、見ていて気持ちが高ぶった。

やっぱり子どもの頃から上質の音楽を聴かせることは大事かも。何もクラシック音楽に限ったことではなく、どんなジャンルだって構わない。少なくとも両親が音楽好きで、日常に音楽が溢れていて、親子共々聴いたり奏したりできる、そんな家族関係が構築できたら、家庭問題など一切起きないんじゃないか、そんなことをあわせて考えた。

とはいえ、子どもに音楽を教えるのには親も相当骨が折れるだろう。自ら進んで音楽に向かう子なら簡単だが、今の世の中あらゆる情報が溢れ、音楽に一点集中
して学ぼうとしてくれる子なんてそうはいまい。親も教育に必死だが、子も自分の意志を貫き、親の呪縛から逃れようと必死だから。そうは甘くない・・・(笑)。

ところで、ベートーヴェンは、当時の時代背景ももちろんあっただろうが、幸か不幸か幼少時から音楽的才能に長け、アマデウスのように育ててお金儲けをしようとした父親のある意味「餌食」になった。「餌食」というと聞こえは良くないが、今でいうところのドメスティック・ヴァイオレンスを受けながら無理矢理音楽家としての道を歩まされたようなものだから、ある視点からみるとそう言い切ってしまっても良い。ただし、そのお陰で未来にも名を馳せる大芸術家になったのだから、そのこと自体は決して否定できないのだけれど・・・。

ベートーヴェンの革新性というのは、彼の中にある「浮き沈み」の感情からもたらされたもの。突然爆発したり、急激に落ち込んだり、平凡な家庭で育った我々には想像もつかないような感情の起伏と
感性のぶっ飛び(そこには人間に対する「不信感」もあったかも)。それを音化してゆくことで解消、昇華してゆく、それは彼が生きていく上でも必須の術だったということだ。

今日もベートーヴェン。

ベートーヴェン:
・弦楽四重奏曲第5番イ長調作品18-5
・弦楽四重奏曲第6番変ロ長調作品18-6
アルバン・ベルク四重奏団

ベートーヴェンが発表した最初の弦楽四重奏曲。その第6番は、早くも晩年のような深みのある瞬間をもつ。終楽章の序奏部は時間にして3分ほどの長大なもので、アダージョ・ラ・マリンコニア、すなわち感傷的にという指定をもつもので、その後に続く主部の明るさとの対比が何とも美しい。果たして、当時の聴衆はこの音楽を素直に受容できたのだろうか?


2 COMMENTS

雅之

おはようございます。
客観的にみても、クラシック音楽を取り巻く現状は寂しい限りですね。
ちょっと思いつくだけでも、
①一般のクラシック・コンサートに足を運ぶ層が、定年後の団塊世代の台頭など、確実に高年齢化している。
②中学・高校の吹奏楽部の入部が、ほとんど女子だけになっている。
③クラシック音楽ソフトのハイパー・インフレ的値崩れ。
 ※一例 コラムニスト、川上瀬名さんのブログ上でのご意見
http://senakawakami.blog101.fc2.com/blog-entry-4.html
④真の巨匠が少なくなった。
⑤経済不況
・・・まあ、書けばきりがないほどで、厭になります。
だからこそ、赤ちゃんのための「音浴じかん」は、何十年後の成果がどう出るかは未知かもしれませんが、次世代にクラシック音楽のたすきをつないでいくための一縷の望みを託するに値する、もの凄く有意義な活動だと信じています。
ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第6番は、おっしゃるように後期的要素を感じさせるとても味わい深い作品ですよね。
>果たして、当時の聴衆はこの音楽を素直に受容できたのだろうか?
それは私にも不明ですが、少なくともこの曲の演奏者には受容できたと確信しています。昔も今も、この曲を練習することによりベートーヴェンと同じ「痛み」と「悦び」を実感し主体的に音楽の内側に入ることができれば、もうベートーヴェンの人生の「傍観者」「他人事」だけではいられなくなるからです。

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
確かにCDが登場する以前の状況と随分変化しましたよね。
高価なレコードを、聴いてみたいものはいくつもあるけど一度に買うことはできないので選びに選んで手に入れた記憶とか、特にセット物などはほとんど手が出なくて人から借りたりとか・・・、若い頃のそういう思い出が甦ってきます。
ご紹介の川上さんも書いておられるように、セット物が吃驚するほど格安になったのは便利で嬉しいことですが、何だか味気なくなったのも(思い入れが浅くなったのも)間違いない事実です。
「音浴じかん」が次世代のクラシック・ファンを増やしてゆく活動につながるならこれほど嬉しいことはないですね。ただし、結局は親が音楽好きで、彼らが大人になった後も日常的に聴いたり演奏したり、楽しむ土壌が家庭の中にあるかどうかもとても大事だと思います。世の中のお父さん方には、そんな余裕は今ないかもしれません。
>少なくともこの曲の演奏者には受容できたと確信しています。昔も今も、この曲を練習することによりベートーヴェンと同じ「痛み」と「悦び」を実感し主体的に音楽の内側に入ることができれば、もうベートーヴェンの人生の「傍観者」「他人事」だけではいられなくなるからです。
なるほど。やっぱり「共感」が大事ですね。

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