グノーとファニー・メンデルスゾーン

シャルル・グノーが、J.S.バッハの前奏曲とフーガBWV846を伴奏にメロディをつけ、(クラシック音楽のジャンルを超え)おそらく世界的に最も有名な作品のひとつであろう「アヴェ・マリア」。クリスマス・シーズンはもちろんのこと、昨今は「癒し」の音楽として至る所で演奏される機会も多い。我が愛知とし子もセカンド・アルバム「月光浴」に収録しているし、赤ちゃんのための「音浴じかん」でも頻繁に演奏する。このあまりに有名過ぎる音楽のある逸話についてはあまり知られていないのではないだろうか。

フェリックス・メンデルスゾーンの実姉であるファニーが作曲に絡んでいるのではないか、否、ひょっとするとかなりの部分でファニーの知恵が働いているのではないか、そんな説がある。さらには、オペラ「ファウスト」ですらファニーからの影響を指摘する学者もいるほどだ(ファニーがドイツ文学、特にゲーテの「ファウスト」についてレクチャーをしたらしい)。

1840年、ファニーは夫と子どもと共にいよいよ憧れのイタリアを長期で訪問する機会に恵まれる。ローマでは、ヴィラ・メディチにてヴェルヘルム&ファニー夫妻のほかジョルジュ・ブスケ、シャルル・グノー(ローマ大賞を受賞し留学中だった)、シャルル・デュガソーらが集まり、音楽を奏し、おしゃべりに花を咲かせた。中でもグノーはファニーの才能に驚嘆し、最も大きな影響を受けたという。後年のグノーの「回想記」。
「マダム・ヘンゼル(ファニーのこと)は人並み外れた音楽家であり、素晴らしいピアニストであり、才気あふれる女性だった。体つきは小柄だが、活力に溢れ、それは彼女の深い目と燃えるようなまなざしから感じ取られた。彼女は作曲家として稀な才能に恵まれていた」

ファニー・メンデルスゾーン・ヘンゼルについてはまだまだ研究の余地がある。僕自身も理解が足りない。もっと彼女の音楽を聴きたい、そしてその人生について知りたい、前述の事実を知るにつけ、そんな思いが身体中を駆け巡る。

こういう知識を得たお陰で、ほとんど聴くことなく棚に眠っていたグノーのオペラを少しばかり聴きたくなった。ワーグナーとはまた違った意味での長大なグランド・オペラは苦手だったので僕はフランス・オペラには疎い。それでも、久しぶりに聴く「ファウスト」には何だかファニーのあの明るい開放的な息吹が感じ取れ、良い気分になる。

グノー:歌劇「ファウスト」
フランコ・コレッリ(テノール)
ニコライ・ギャウロフ(バス)
ジョーン・サザーランド(ソプラノ)ほか
アンブロジアン・オペラ・コーラス
リチャード・ボニング指揮ロンドン交響楽団

繰り返し聴いてモノにしてみるか・・・。
それにしてもテキストが「ファウスト」第2部でなく第1部であるところが作曲者らしい。


3 COMMENTS

雅之

おはようございます。

グノー:歌劇「ファウスト」といっても、全然聴き込んだことがなく、頭にさっぱり思い浮びません。

例によって朝で時間がないので、何となく適当な連想ゲームでお茶を濁します(笑)。

ゲーテ→「色彩論」の方向で連想してみました。

>中でもグノーはファニーの才能に驚嘆し、最も大きな影響を受けたという。後年のグノーの「回想記」。
「マダム・ヘンゼル(ファニーのこと)は人並み外れた音楽家であり、素晴らしいピアニストであり、才気あふれる女性だった。体つきは小柄だが、活力に溢れ、それは彼女の深い目と燃えるようなまなざしから感じ取られた。彼女は作曲家として稀な才能に恵まれていた」

・・・・・・幼い頃から画才を示していたが、美声でもあったルノワールは1850年頃に9歳前後で作曲家のシャルル・グノーが率いるサン・トゥスタッシュ教会の聖歌隊に入り、グノーから声楽を学んだ。ルノワールの歌手としての才能を高く評価したグノーはルノワールの両親にルノワールをオペラ座の合唱団に入れることを提案したが、同時期に父親の知人からルノワールを磁器工場の徒弟として雇いたいという申し出が父親にあったことや、ルノワール自身が磁器工場での仕事を希望したため、両親及びルノワール自身がグノーの提案を断り、聖歌隊も辞めた。・・・・・・ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%A5%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%8E%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB

ルノアール「ピアノに寄る少女たち」
1892年 オルセー美術館
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Renoir23.jpg

ルノアールがこの絵を描いた時(51歳)、幼・少年時代の音楽経験を懐かしんでいたのかも、
グノー先生のことも・・・。
ルノアールの作風、メンデルスゾーンの音楽美と共通する要素が多いのではないでしょうか?

ルノアールが生まれたのは、ファニーのイタリア旅行の翌年である1841年2月25日。
その1941年春、ファニーは イタリア滞在の経験にもとづき、イタリアの一年間の行事や風景を1月~12月という十二曲のピアノ連作集《一年》を作曲しているそうですね・・・、この曲も未聴なので聴いてみたいです、ルノアール「ピアノに寄る少女たち」を眺めながら・・・。

ルノアールが6歳になった1847年2月、シューマン夫妻はベルリンに滞在、前年からファニーと親交を深めていたクララ・シューマンは、ファニーと2月の日曜演奏会で、夢の競演をします。なのに、それなのに、そのわずか3ヶ月後、脳溢血により41歳の若さでファニーは急逝してしまうのですね。

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
なるほど、興味深い連想です。

>ルノアールの作風、メンデルスゾーンの音楽美と共通する要素が多いのではないでしょうか?
おっしゃるとおりですね。
ルノアールとには詳しくないですが、有名な「ピアノに寄る少女たち」をみていると、そんなようにも思えます。・
あと、ファニーのピアノ連作集についても同感です。何とか聴いてみたいなと僕も思っています。

>クララ・シューマンは、ファニーと2月の日曜演奏会で、夢の競演をします。
ほんとに夢のようですね。
何を弾いたんでしょうね・・・。「真夏の夜の夢」とか、モーツァルトのソナタとか・・・。
空想にふけってみるのも素敵です。

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