1985年の夏のある日、僕は徹夜でずっとテレビにかじりついていた。
数多のバンドのシーンを観るために。もちろん彼らの姿ははっきり覚えている。
複雑な想いである。
彼らの楽曲が、バンドの手を離れて、世界に永遠に残るであろう傑作であることを僕はあらためて確認した。ただ、うまく言えないのだけれど、とても大事なところがぼやかされて、削り取られて、単なる「美談」としてクイーンが、フレディが語られているところが、何だかとても浅薄に思えてならなかった。仕方ないんだろうけれど。
「ようするに、仕事」クイーンのリード・ヴォーカル、フレディ・マーキュリーは言う。フレディによれば、クイーンは、『全員、仕事にあぶれる余裕がなかった』ために、作られたバンドだった。マーキュリーのアフリカ・ツアーの話は、まるで株主総会の課長の話のようで、『新しいテリトリーが開拓されたとか、市場を制圧した』というような表現がぽんぽん飛び出してくる。
フレディは、今のバンドは、ビジネスとして生き残るための準備をしているという。
~ゲーリー・ハーマン著/中江昌彦訳「ロックンロール・バビロン」(白夜書房)P202
確かにフレディのこういう側面は多少描かれていた。
フレディに焦点を当てるというのは悪くない。
しかし、フレディを本気で描くならもっと深層から真相まで掘り返さないことには絵にならない。彼の人生はもっと赤裸々であっただろうゆえ、それを映像化するには、どうしても想像の範囲を超えることのない描き方をせざるを得ず、その分どうしても物語が曖昧になるのだろう。いや、そもそもフレディ・マーキュリーを描こうなどとすること自体がナンセンスなのかもしれない。良い映画だとは思うのだけれど、残念ながら僕には響かなかった。
僕は、バンドの、粗削りだけれど、斬新で、革新的なパフォーマンスを誇っていた最初期が好きだ。ファースト・アルバムはもちろんのこと、最大の傑作は「オペラ座の夜」でも、「世界に捧ぐ」でもなく、ましてや「ワークス」などではなく、セカンド・アルバムだと思っているのに、予想通りわずかに(?)ファーストに収録された”Seven Seas Of Rhye”だけが映画で使われたのみだった。物語の筋に直接関係ないと判断されたからなのだろうが、この作品がクイーンにとって、クイーン・ファンにとってまったく重要でないかのように無視されていることが正直悲しい。
ブライアン・シンガー監督「ボヘミアン・ラプソディ」(2018)
音楽プロデューサー:ブライアン・メイ、ロジャー・テイラー
ラミ・マレック(フレディ・マーキュリー)
ルーシー・ボーイントン(メアリー・オースティン)
グウィリム・リー(ブライアン・メイ)
ベン・ハーディ(ロジャー・テイラー)
ジョセフ・マッゼロ(ジョン・ディーコン)
トム・ホランダー、マイク・マイヤーズ、ほか
85年の来日公演を、「クイーンの十字軍」だと名乗っていた僕の友人は観に行った(5月11日代々木体育館)。残念ながら僕は(確か実況中継された)FM放送で聴いていた。ラジオでは十分素晴らしいコンサートに感じられたのだが、実際現場に触れた彼は、やはりどこか中途半端な感が拭えなかったと語っていたことを思い出す。
この頃、メンバー個々の音楽性に温度差が生まれていたことは事実であり、かつての“一枚岩”的雰囲気は薄れていた。常に時代を先取りするかのような変化を自らに課してきた彼らだが、次の方向性を見出せずにいたことは明白だ。商業的には大成功を収めた「ザ・ワークス」も、その内容からはクイーンらしい斬新さは感じられなかった。のちに本人たちが漏らしていたように「マンネリだった」のである。
芳賀崇「日本の若者を熱狂させたジャパン・ツアーの足跡」
~レコード・コレクターズ増刊「クイーン・アルティミット・ガイド」P61
背景には実は、フレディの病気のことがあったのかもしれない(そのときは知る由もなかったけれど)。
クイーンの物語は、フィクションには向かないと僕は思う。
「魂に響くラスト21分」というキャッチコピーも、(厳しいけれど)むしろ期待外れ。ライブ・エイドの映像をそのまま流した方がリアルで良かったのではないかと思うくらい。フレディの、真のドキュメンタリーを観たいものだ。
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