ミュンシュ指揮ボストン響のオネゲル第2番(1953.3.29録音)ほかを聴いて思ふ

人間の思考や感情というものは最終的にはまったく当てにならぬもの。感覚こそがすべてなのである。

しかり、そうして否ですね。万事がおわると、わたしはひじょうにちがう二つの印象を感じる。《これは失敗だ・・・もういちどはじめるとしたら、全然ちがったふうにたるだろう・・・》とひとりごとをいう。さもなければ、《これはわるくない。楽想のつなぎもしぜんだ。これ以外の解決はなかった・・・》と告白する。しかしこれは個人的な感情です。わたしは作曲の過程を、ひじょうに主観的な角度からしか述べられません。それは音楽家それぞれでちがうべきです。だからわたしにはジャック・イベールが仕事をするときのやりかたは全然見当がつかない・・・。
アルチュール・オネゲル著/吉田秀和訳「わたしは作曲家である」(音楽之友社)P96-97

世の中はすべて主観で成り立っている。オネゲルは続いて次のように語る。

過去の大家たちとなると、なおさらわたしにはその方法が想像つかなくなる。わたしは、自分の仕事については、外側しか知らない。その発端とか・・・人が思いだしてほしいと思うようなことは、みんな忘れてしまう。だから、チューリヒでわたしの「弦楽のためのシンフォニー」を初演したとき、主催者たちからこの作品の作曲に関係のある思い出をなにか話してくれとたのまれ、《どんなふうにしてこの作品の楽想が浮かんだか・・・》などきかれたけれど、ごくばくぜんとした外部な状態しか思いだせなかった。はっきり思いだせるのはただ一つ、気象状態です。あのシンフォニーを作曲していたときはとても寒かった、それにわたしはアトリエで火をおこせなかったので、凍えてしまった・・・この不愉快な気持ちと作品の着想とのあいだには明らかになんの関係もない・・・。
~同上書P97

まさに「事実」はただ「事実」であって、本来そこに「思考」「や「感情」が入る余地はないのだということを示す言葉。特に、音楽の創造行為は「感覚」以外の何ものでもないことを物語るエピソードだ。

オネゲル:
・弦楽オーケストラのための交響曲第2番(1941)(1953.3.29録音)
・交響曲第5番「3つのレ」(1947)(1952.10.27録音)
ルーセル:
・バレエ組曲「バッカスとアリアーヌ」第2番(1930)(1952.10.27録音)
シャルル・ミュンシュ指揮ボストン交響楽団

パウル・ザッヒャーの委嘱により書かれた第2番は、第二次大戦中の、寒い冬に生み出されたものだ。暗澹たる雰囲気を醸すものの、弦楽合奏という音響が幾分「暗さ」を和らげ、不思議な癒しを与えてくれる。同時に、終楽章に任意で加えられるトランペットの強力な吹奏が、静寂をつんざく様に、人は鼓舞されたのだろう。
また、クーセヴィツキー夫人の死去に際し、委嘱された第5番「3つのレ」も、同じく慟哭の音調を保つ。内燃する暴力的なまでの音の洪水は、どちからというとショスタコーヴィチのそれに通じるもの。

恐るべきは、ミュンシュの指揮!
土臭い、血沸く、怒涛の音波攻撃とでもいうのか、(旧い録音ながら)どの瞬間もあまりに有機的で、聴いていて苦しくなるほどだ。

力を抜け、抜け、頭の力も体の力も手の力もみんな抜け。
(シャルル・ミュンシュ)

あれほど途轍もない演奏を、ミュンシュは脱力で演っていたことが奇蹟。
ルーセルの「バッカスとアリアーヌ」組曲も絶品。

 

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