バルシャイ指揮ケルン放送響のショスタコーヴィチ第6番(1995.10録音)ほかを聴いて思ふ

悲劇とぺシムズムを混同するなとショスタコーヴィチは言う。
なぜベートーヴェンが偉大なのか。彼の音楽が進歩的、かつ人間的であり、それゆえに悪と暴力に対し、断固として抗議しているからだと彼は言う。

時として、ベートーヴェンの作品は悲劇的すぎると見られることもある。そう見なされるのは、世界の芸術の中で高い悲劇の作品が常に最も人生肯定的であることを忘れて、悲劇をペシミズムと混同してしまうことが少なくないからだ。その例として、シェークスピアやゲーテなどの悲劇をあげることができると私は思う。しかし現在、こうした進歩的でヒューマニスティックな芸術が、百年前に比べて人間のあらゆる悲観、苦悩に応えなくなったと言えるだろうか。否、それに応えつつ、悪と暴力に対し、断固として抗議している。だからこそわれわれはベートーヴェンを同時代人と見なしているのである。
(ベートーヴェン生誕200周年に寄せて。「夕刊モスクワ」紙1970年12月15日付。「自伝」所収)
「ショスタコーヴィチ大研究」(春秋社)P105

苦悩の塊のようなショスタコーヴィチの音楽にも、ベートーヴェンと同じく、悲観や苦悩に応えるだけの力があり、同時に悪や暴力に対し断固と抗議する力がある。そして、それは時を経るごとに永遠となる。ベートーヴェンもショスタコーヴィチも、(同種療法的)未来音楽を書いたのである。

この作品をしばしば根本的に分析した批評の中で、何よりもまず、ある批評が特別の喜びを私にもたらした。その批評には、《交響曲第5番》は正当な批判に対するあるソヴィエト芸術家の実践的・創造的回答である、と書かれていた。
(私の創造的回答《交響曲第5番》「夕刊モスクワ」紙1938年1月25日付)
~同上書P97

ショスタコーヴィチの人生は常に闘争だった。
しかし、それは一見外的(政治的)圧力との闘いのように見えるが、何より自分自身との闘いではなかったか。

ルドルフ・バルシャイの演奏は、ショスタコーヴィチの内面を抉り、実に熱気に満ちた、想像を絶する響きで僕たちの脳髄を刺激する。交響曲第5番第1楽章モデラート冒頭からただならぬ音楽が鳴るのだが、しかし、何より白眉は、あまりに悲劇的でありながらヒューマニスティックな内面を吐露する第3楽章ラルゴ。もちろん終楽章アレグロ・ノン・トロッポの豪快かつ能動的な解放感は他にはないもの。冒頭の遅めのテンポと、コーダでの、溜めて、溜めて、溜めて、解放という酷寒北国的手法(?)は、最終解決策としてあまりに相応だ。

ショスタコーヴィチ:
・交響曲第5番ニ短調作品47(1995.7.3/8 &1996.4.26録音)
・交響曲第6番ロ短調作品54(1995.10.17/20録音)
ルドルフ・バルシャイ指揮ケルン放送交響楽団

第5番以上に素晴らしいのが交響曲第6番(圧倒的!!)。
第1楽章ラルゴは、前作終楽章の解放からの、逍遥と昇華の具現。
音楽は彷徨するも、しかし、確実に「空(くう)」へと飛翔する。ここでのバルシャイの命を懸けた指揮は、まるでショスタコーヴィチの魂を救うよう。

1939年11月5日に行われた初演を聞いて、不満を表明する批評が続出した。ショスタコーヴィチは不安を隠さず、「作曲家たちは僕の交響曲に憤慨している。どうしようか。僕は明らかに当て損なったようだ。このことを気にしないようにはしているけれど、やはり針のむしろに座っている気持ちだ」とモスクワのシェバリーンに書き送った。
~同上書P58

型破りの交響曲は断然美しい。
短く激しい第2楽章アレグロを経て、終楽章プレストの熱狂は、ショスタコーヴィチの祝祭であり、それを見事に再現するバルシャイの心情発露でもあろう。

世界は嫉妬とゲームに満ちている。

 

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