ベーム指揮ウィーン・フィルのモーツァルトK.550&K.551(1979.8.7Live)を聴いて思ふ

整理整頓は大事だが、こと音楽に関していうなら、人為的に調えられたものよりも、自然の流れに沿った、聴衆にその場で感応した実演ほど、僕たちの魂を直接に射貫くのは事実。いや、実演に限らず、(たとえ事故があれど)実況録音においてもそのことは一目(一聴?)瞭然だろう。

カール・ベームはライヴの人だということを目の当たりにした1枚。
例えば、DG録音の演奏と比較すれば、その燃焼具合の雲泥の差は歴然。交響曲ト短調K.550終楽章コーダや、交響曲ハ長調K.551「ジュピター」第1楽章コーダのリタルダンドなどは最たるもので、ザルツブルク音楽祭におけるベームの神がかり的インスピレーションを見事に表す一瞬だろう。

静のDG盤に対し、動の実況録音盤とでも言っておこうか。
純粋無垢のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。おそらくもう何百回、何千回と聴いているかもしれない。それでも、ベームのこのライヴに触れると、思わず心が熱くなるのである。文字通り、生命力豊かな、血の通った、灼熱の、聴く者の肺腑を抉る、様々な感情が横溢する怒涛のパフォーマンス(1979年ザルツブルク音楽祭ライヴは、後世に語り継がれるべき超絶名演奏)。

正直僕は、昔、DGのスタジオ録音を聴いたとき、それほど感心しなかった。というより、感動しなかった。モーツァルトの音楽はもちろんとても素晴らしいのに、どこか集中力を欠いた、腑抜け(言い過ぎか?)の表現に僕はがっかりしたのである。

モーツァルト:
・交響曲第39番変ホ長調K.543(1966.2録音)
・交響曲第40番ト短調K.550(1961.12録音)
・交響曲第41番ハ長調K.551「ジュピター」(1962.3録音)
カール・ベーム指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

ただし、当時10代の僕には、彼の音楽の神髄はまだまだわからなかったのだとも言える。
大人になってからあらためて耳にしたとき、カール・ベームのモーツァルトが、どの作品であれ、抜き差しならぬ愛情こもったものだということをどれほど実感したものか。

カール・ベームが亡くなったのは8月14日。今年の初めあたりから、いよいよ危ないと噂されていたので、誰もが意外とは思わなかった。大往生を遂げたというわけだ。とはいってもずっと寝たきりだったのではないから、「もう今年いっぱいはもたないのでは・・・」などという周囲の不謹慎な噂をよそに、本人はまだやる気充分だった。
7月末のミュンヘン・メルクーア紙に載ったインタヴューは、とても1ヶ月もたずに他界してしまう人のものとは感じられない。
このインタヴューは、ザルツブルク音楽祭の《ナクソス島のアリアドネ》を降りた後だったのだが、ザルツブルクでは8月29日にぜひ指揮壇に立って、このシューベルト・プロによる演奏会を、「コンサートホールとの決別」にしたいと明かしている。これはまあ、限界を悟ったベームの、引退宣言と受けとれる。けれどもその後がいかにもベームらしく強い。「私の心はまだ実に楽天的だね」と語り、レコーディングの計画を明らかにしているのだ。それも単発でなく、モーツァルト交響曲全集。ベームはすでにベルリン・フィルとともにこの全集を完成させているが、今度はウィーン・フィルと入れ直そうと考えたわけだ。結局この「モーツァルト交響曲全集」が、ベーム最後のレコーディング「予定」、または「希望」になった。
(堀内修)
~「レコード芸術」1981年10月号P53

「私の心はまだ実に楽天的だ」というベームの言葉こそ、彼の演奏のすべてを表すものだと思う。まさに生涯現役。

モーツァルト:
・交響曲第40番ト短調K.550
・交響曲第41番ハ長調K.551「ジュピター」
カール・ベーム指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1979.8.7Live)

最晩年のベームらしい堂々たるテンポのモーツァルトは、意外にもたれない。
牛歩だけれど、律動が明確で、呼吸も深く、また各奏者が渾身の演奏を施すせいか音楽に力とエネルギーが隅々に漲っているのである。

ベームは音楽表現にことさらに自己を顕示したり、表現の誇張をはかったりしたことはなかった。それでいて、かれの演奏では楽器も声もゆたかに響くのは、音のバランスをよく保って、形式の整った演奏をしていたからである。オーケストラを威圧することなく、ゆたかに歌い響かせながら、バランスと構成との面から強い凝集力をむき出すために、あのような平凡なようでいて魅力ある、人間味にとんだ指揮を行なったのである。
(村田武雄「オーストリアと泣く」)
~同上誌P99

堀内修さんの言葉も、村田武雄さんの追悼言も、ベームへの尊敬と愛に満ちる。
ベームはやっぱりライヴの人だ。内面の燃焼度が格段に他を圧倒する。
「ジュピター」第2楽章アンダンテ・カンタービレの憂い、そして、言葉では表現し尽くせない終楽章モルト・アレグロの雄渾。聴衆の狂乱的歓喜の喝采に震えが止まらない。あるいは、交響曲ト短調第1楽章モルト・アレグロの提示部の意味深さもさることながら、展開部の儚いうねりに涙を禁じ得ない。

 

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