ホメオパシーのコンサルテーションを受けてから3週間ほどが経過する。お腹の辺りに発疹が出たり、腰の辺りがかぶれたようになる。これが好転反応というものらしいのだが、特にお腹の方は痒くてたまらない(もちろん掻き毟らないよう努力しているが)。ホメオパシーとは関係なく、以前も同じような状態になったことがある。その時は我慢ならずひどく掻いたため赤く腫上がって大変なことになった。もともと薬はあまり好きではないから「自然治癒」をと思って放っておいたのだが、完治せず、結局副腎皮質ホルモン系の皮膚薬を塗ったらばあっという間に湿疹はひいた。それでも、数年後同じような状態に陥るのだから、「薬」とは結局は「対症療法」に過ぎないことがよくわかる。
宇宙も、地球も、人間も「バランス」と「調和」の中に生きている。そのバランスがどこかで崩れた時にある一点「何か問題」が生じるのである。ともかく焦らずじっくりと「治まる」のを待つのが良いのだろう。
金子みすゞ童謡集「わたしと小鳥とすずと」を読むと、彼女がまだまだ若い時分から「物事を全体で捉える」ことができ、「極めて鋭い感性に富んだ」優れた詩人であったことがよくわかる。
「大漁」
朝やけ小やけだ 大漁だ
大ばいわしの 大漁だ。
はまは祭りの ようだけど
海のなかでは 何万の
いわしのとむらい するだろう。
「木」
小鳥は 小えだのてっぺんに、
子どもは 木かげのぶらんこに、
小ちゃな葉っぱは 芽のなかに。
あの木は、
あの木は、
うれしかろ。
生きとし生けるものすべてに感謝できる、そして物事の裏側を素直に察知できるこういう感性を多くの大人は忘れがちだ。「感謝」の気持ちをいつも忘れないようにしたいものだ。
ところで、週末の「早わかりクラシック音楽講座」はショパンがテーマである。有名な楽曲をあまりにも数多く残したピアノの詩人をどのような切口で料理するか相当悩んだが、やはり男装の麗人ジョルジュ・サンドとの生活を抜きに彼のことは語れまい。1836年、二人の出会いから1847年の破局までの10年余りを振り返り、名曲と共に3時間を過ごそうと考えた。
ショパン:ノクターン集(9曲)
ヴァレリー・アファナシエフ(ピアノ)
もうのっけからアファナシエフ節。彼以外の誰がこういう音楽創りを成し得たか・・・。ポゴレリッチか、グールドか・・・。こんなにも深遠で壮大な宇宙を思わせる「夜想曲」を聴いたことがない。気が遠くなるほどの「無限」を感じさせてくれる人類永遠の至宝。
今宵、アファナシエフのショパンに耳を傾けながら、金子みすゞの永遠の世界に浸る・・・。
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[…] アファナシエフの印象は、気難しさと小難しさ。 ブラームスの後期小品集やショパンのノクターン集、あるいはマズルカ集などは初めて聴いたときその深遠さと巨大さに相当感激したものだが、基本的に考え過ぎの、頭で作った音楽に聴こえてしまうところが難点(実際にオペラシティで聴いたリサイタルも今一つの印象だった)。 しかしながら、このバッハは違う。おそらくショスタコーヴィチが脳天を直撃されたときの衝撃のような静かな破壊力がある。バッハが平均律というシステムを完成させたことは音楽史的にみて画期的な事件だろうが、そもそもこの平均律というシステムが四角四面の枠のように音楽家を苦しめてきたともいえまいか。素人的な思考でしかないけれど。 […]
[…] ベルトは自分と世界とが「ひとつである」ことがわかっていたんだ。そういえば、世に夭折の人々は皆等しくそう。金子みすゞ然り、堀明子然り、石川啄木然り。あ、坂本龍馬も・・・。 […]