とてもすっきりした爽やかな一日。今日は秋分の日(すなわちご先祖様を偲ぶ日)。政界、財界、どこもかしこもバタバタしているが、世の中の「気」は随分落ち着いたように感じる。要らないモノを捨てて、みんなもっと楽になればいいのに、とふと思う。
「レコード芸術」10月号をパラパラと捲っていて、そういえばオリヴィエ・メシアンが今年生誕100年なんだということに気づいた(ということは、カラヤンや朝比奈先生と同級生ということになる)。特集記事の中に、彼の3つの主要作品(すなわち「トゥランガリーラ交響曲」、「世の終わりのための四重奏曲」、そして「幼子イエスに注ぐ20の眼差し」)についての論評が掲載されており、とても興味深く読ませてもらった。
ところで、メシアンについては音盤もそれなりに所有し、これまでもふと思い立っては聴いてきたものの、彼自身のこと、あるいや音楽やその作風については全くもって勉強不足で、ブログ上で語るだけの力量は残念ながら今の僕にはない。少なくとも敬虔なカトリック教徒であったメシアンの音楽に反映されているものは、間違いなくキリスト教精神であり、一般に好んで聴かれている作品のほとんどはその宗教的バックグラウンドを完璧に把握することなしに深層まで理解することはほとんど不可能に近い。
メシアン:トゥランガリーラ交響曲(ピアノと大オーケストラのための)
イヴォンヌ・ロリオ(ピアノ)
ジャンヌ・ロリオ(オンド・マルトノ)
チョン・ミョン=フン指揮パリ・バスティーユ管弦楽団
作曲者お墨付きの演奏ということで随分前(発売当初)に購入したものの、聴き込みが全く足らず(というより楽曲に対する理解が全く追いついておらず)、この世紀の傑作について勝手な見解を書くことが憚られる。
メシアン自身の解説によると「トゥランガリーラ」とは、サンスクリット語の合成単語で、「愛の歌」であり、同時に「喜びの賛歌」であり、「時」であり、「楽章」であり、「リズム」であり、「生と死」であるということである。極めて形而上的なニュアンスを湛えており、このことだけで80分弱の大作をモノにしようとする士気が萎えてしまう(苦笑)。哲学、あるいは精神性云々については文字になっているならば、それについて思考を深め、理解に近づくことはまだ易しい。しかしながら、瞬間瞬間に消えてゆく音の流れを相手にするとなると、これほど難儀な作業はない。他をシャットアウトし、五感を研ぎ澄ませ、一点集中して何度も聴きこまねば「メシアンの言わんとする真の心の声」は聴こえてこないのではないか・・・。作曲者が認めた解説を読み、評論家諸氏が書いた文章を読みながら、頭だけで理解したとしてもそれはこの音楽の半分も理解したことにはならないだろう。
そんなことを考えていると、第8楽章「愛の展開」に差し掛かったところで、ふとR.シュトラウスの楽劇「バラの騎士」の前奏曲、元帥夫人とオクタヴィアンの愛欲のシーンを連想した。「ん?敬虔なキリスト教徒とはいえ、メシアンも決して禁欲的な生活を送っていたわけではなく、相当な好色なのではないか?
(笑)」。さすがにワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」に影響を受けた音楽らしく、妖艶な楽想が実に多い。そう思って聴くと、意外にすんなり楽しんで聴けるものだ。難しいことを考えずに音の洪水に浸ろう・・・。
弟子である藤井一興氏曰く、メシアンと武満の作品には共通性があり、しかも二人とも地球規模ではないところ、もっと広い宇宙のようなところで音楽をしているのだと。そういうことを我々は忘れてはいけないのだと。
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[…] ショスタコーヴィチの「レニングラード」交響曲のアメリカ初演を巡って、トスカニーニ、ストコフスキー、クーセヴィツキーの3者が初演の権利を争ったことは有名な話(結局、トスカニーニ=放送初演、ストコフスキー=公開初演、クーセヴィツキー=初録音で折り合いがついたらしいが)。ショスタコーヴィチに限らず、20世紀の米露の音楽地図をひもといてみるといろいろと面白い事実が浮かび上がりそうだ。 レオポルド・ストコフスキーはショスタコーヴィチの作品の米国初演を結構な頻度で担っているが、例えば20歳ほど年長のストラヴィンスキーの場合は、作曲家本人かセルゲイ・クーセヴィツキーに依頼することが多かったよう。というよりクーセヴィツキーは20世紀の著名な作曲家に作品を委嘱し、現代音楽の普及に努めた人だから当然と言えば当然。バルトークのオケコンもそう、ラヴェル編曲の「展覧会の絵」だってそう、メシアンの「トゥーランガリラ交響曲」もそうなのだから、クーセヴィツキーあっての20世紀音楽界と言っても過言でない。 […]