自分は自分以外の何者でもない

matacic_einem.jpg「なるほど」、とか「わかった」という口癖は止めたほうが良い。そういう言葉を発するときに限って「わかってない」からだ。言葉を発する前に自問自答するなり、相手に質問を投げかけるなり、あるいは「よくわからない」と反論してみたり、変にいい子にならず、何事にも疑問を持つことから始めた方が良い。靄がかかったように視界の前方が曇っているとき、そのことに不安と焦りを覚えるのは当たり前のことだが、それはそれで良しと開き直るのも一つの手である。

無意識に誰かと比較するとき、あるいは誰かに影響を受けてしまうとき、人は自分自身を信じることができなくなる。自分自身を信じられなくなると、人は誰かや何かに依存してしまう。何かにすがることで答がもらえると勘違いするのだが、すがったところで答が出よう筈がない。要は、答は自分の中にあるのだから。自分の目指すことは自分でしか解決できないし、自分でやるのだ。そして今目前で起こっていることが事実なのであり、ありのままを受け容れてみることだ。

ハイドン:交響曲第103番変ホ長調Hob.Ⅰ-103「太鼓連打」
シューベルト:交響曲第7番ロ短調D759「未完成」
アイネム:ブルックナー・ディアローグ作品39
ロヴロ・フォン・マタチッチ指揮ウィーン交響楽団

1980年代初頭、ムジークフェラインにてマタチッチがウィーン響を振ったコンサートのライブ録音(巨匠の死の1、2年前に当たるから最晩年の演奏ということになる)。ハイドンといいシューベルトといい、とても齢80を超えた老大家の表現とは思えないほど瑞々しくかつ予想外に颯爽としたテンポであるところが新鮮だ(ハイドンなどもともとクレンペラーの録音で聴き込んでいたものだから余計にそう感じる)。
特筆すべきが、ゴットフリート・フォン・アイネム(バーンスタインと同年の生まれで、今年が生誕90年)が作曲した「ブルックナー・ディアローグ」(この曲はこの音盤で初めて知った)。ブルックナーからの多数の引用をベースにして作られた16分ほどの楽曲だが、作曲の動機や背景は不明。しかしながら、ブルックナーの音楽はマタチッチの十八番でもあったわけで、この隠れた名品をブルックナーの新発見曲の如く見事に表現しきっている彼の音楽的腕前と才能は本物だったことがあらためてわかる。

ブルックナーを得意としたギュンター・ヴァントも朝比奈隆も、そしてロヴロ・フォン・マタチッチも、決してお洒落ではない無骨な表現で、各々が独自のブルックナー像を創造した。自分は自分以外の何者にもなれないし、なる必要もないということだ。あくまで自分が自分であること、そのことを一生貫き通した人たちであり、その最たる例がアントン・ブルックナーその人なのだと再認識した。

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