グリゴリー・ソコロフのピアノに初めて触れたとき背筋に電流が走った。
巨躯からあまりに可憐で静謐な音楽が、しみじみと奏される時間の永遠。そこにはあらゆる思考や感情を超えた、まさに感覚の世界があるように僕には思われた。
なぜ彼は日本の地を踏もうとしないのか。
聴きたければ欧州まで来いというのである。
いかに移動がエネルギーを奪うのかはわかる。体力だけでなく精神力をもゆえか。
そしてまた、ソコロフは通常の2倍以上のリハーサルを要求するという。完璧主義者なのである。しかし、そういう人に限って共通するサービス精神は旺盛だ。聴衆が期待する演奏に、長い、何曲にも及ぶアンコール。映像を観ればその集中力の半端なさは明らかだが、音だけに意識を置いて彼の奏でる音楽を聴いてみれば、その神がかった美しさに言葉を失わざるを得ない。
2008年ザルツブルク音楽祭でのリサイタル。
自由に飛翔するモーツァルトの魂。
私も、モーツァルトの生涯には、こんな話はいくらもあったにちがいないと思う。ただし、彼の作曲が、当座の思いつきに従って、一瀉千里に行なわれたとは信じません。そうではなくて、アンリ・ゲオンがいったように、モーツァルトの中には二人の人間がいて、その一人が馬鹿話をしたり大好物の球つきやダンスで夢中になっている間も、もう一つの頭はたえず働いていて、音楽を考えていたという仮説のほうが本当らしいと思います。ゲオンのいう、フーガを書きながら、前奏曲を頭の中で作曲していたという話も、それは彼がフーガを書いていたのは、もう頭の中ですっかり出来上がっていたものを単に紙の上に書きつけるという作業をしていたからにすぎません。事実、彼は姉宛の手紙でそう書いているのです。
「手紙を通してみるモーツァルト」
~「吉田秀和全集1—モーツァルト・ベートーヴェン」(白水社)P119-120
天才の作品を完璧に奏するのに必要なものは、音楽と一体となるセンスだ。ソコロフのピアノに漂う得も言われぬニュアンスは他を冠絶する。例えば、ソナタヘ長調K.332第1楽章アレグロの再現部を聴きたまえ。提示部には施されない薫り立つ装飾に自然と笑みがこぼれる。また、第2楽章アダージョは安息の調べそのもの。そして、終楽章アレグロ・アッサイの喜びの裏側に潜む哀感の顕現。
悲しみを湛え、沈思黙考するショパンの心。何と哲学的な音楽か。
それでいて頭脳に偏らず、あくまでも自然体、感覚的に音楽は運ばれるのである。
ジョルジュ・サンドとの蜜月と短い別れ、あるいは自身の体調不良から来る不安。喧騒から逃れるも、ショパンの心中は決して常に穏やかではなかった。前奏曲は一編の慰めだ。ソコロフのピアノがあまりに美しい。短い第7番イ長調がセンス満点。
ショパンでは、私は、「マズルカ」「練習曲集」の二巻が、いちばんいいのではないかと思っている。最初の「マズルカ」は、全部で六十曲ぐらいだろう。そのどれもが、天才的でないにしても、まず、大作家の日記をよむのにおとらない楽しみが、その各ページにある。リズムの変化、和声の独創性、短い広がりの中での表現の多様さ。
「ロマン派の天才たち」
~「吉田秀和全集7—名曲三〇〇選」(白水社)P165
極めつけはアンコールで奏されたマズルカ!(決してショパンが得意ではないという)吉田秀和さんも書くように、特に晩年のマズルカは絶品揃いで、それをソコロフが抜群の感性でタメを作り表現するのだから堪らない。聴衆の拍手喝采の凄さがこの日の演奏の素晴らしさを物語る。指の回るラモーの「未開人」の爆演が続き、最後は心を込めて歌われるバッハの「主イエス・キリストよ、われ汝に呼ばわる」。何て澄んだ音色。何という囁き。