クレンペラー指揮フィルハーモニア管 ベートーヴェン レオノーレ序曲第2番(1963.11録音)ほか

オットー・クレンペラーは、堂々たる強靭な体躯の持主だが、しかし、精神的には決して強くなく、躁状態と鬱状態を繰り返していた人だ。そういう彼の作り出す音楽には当然ムラがある。例えば、最晩年に録音したブルックナーの交響曲第8番終楽章のカットのように、信じられないような暴挙に出ることもあったが、ただ一方で、彼が作曲家に、そして作品に崇高なる想いを込め、献身的な姿勢で演奏に臨んだときには途轍もない名演奏が生れたことを僕たちは知っている。

そこには慈悲があり、智慧がある。
彼が、単なる風変わりな紳士ではないことがわかる。
ちなみに、若き日、嫁姑の関係がこじれたとき、クレンペラーは間に割って入って妻のヨハナに次のように懇願したというのだから面白い。

ぼくの母親とうまくいかないのなら、お互いの性格が根本からちがうことを思ってみてほしい。若い君のほうが賢いんだから、折れてやってくれ。君がぼくの両親にしてくれることは、ぼくにしてくれることだと考えてほしい。それにあの人たちの歳も思いやってくれ。
(1923年1月3日付、オットーからヨハナ宛)
E・ヴァイスヴァイラー著/明石政紀訳「オットー・クレンペラー―あるユダヤ系ドイツ人の音楽家人生」(みすず書房)P136

いかにも人間らしい愛情と、彼らしからぬ困惑がここから読みとれる。
この正常な、人間臭さが、クレンペラーの芸術の鍵なのだと僕は思う。

1960年代にクレンペラーが録音したベートーヴェンの序曲はいずれもが名演奏。
特に、「レオノーレ」にまつわる3つの序曲の、それぞれの特長を生かした、微動さえしない音楽の素晴らしさ。

ベートーヴェン:
・交響曲第8番ヘ長調作品93(1812)(1957.10.29&30録音)
・レオノーレ序曲第1番作品138(1805)(1963.11.6&7録音)
・レオノーレ序曲第2番作品72a(1805)(1963.11.5&6録音)
・レオノーレ序曲第3番作品72b(1806)(1963.11.4&5録音)
・コリオラン序曲作品62(1805)(1957.10.21録音)
オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団

歌劇「レオノーレ」に内在する、(ベートーヴェンの潜在意識の)世界の統合を祈念する力が、すべての序曲から感じ取れる。ここには、指揮者オットー・クレンペラーの真我の念が投影されるようだ。
例えば、滅多に演奏されない第1番も、今まさに目の前で生み出されたかのようなリアリティを獲得し、歌劇第2幕冒頭フロレスタンのアリア中の旋律のシーンなど、実に哀感に富む。

人の世の春の日に、幸福は私から逃げ去った。
真実を大胆にあえて言ったばっかりに報いはこの鎖です。

アッティラ・チャンバイ/ティートマル・ホラント編「名作オペラブックス③フィデリオ」(音楽之友社)P95

真実は表に出されてはいけないのである。ほんの少し前の時代までは。
しかし、真の救世主が現れる時代になって、真実は自ずと暴かれる。
敬虔なクレンペラーは、そのことをまるで知っていたかのように、音楽に思いを乗せる。
そして、第3番に比較して、ベートーヴェンの(型破りの)革新の魂が咆哮するレオノーレ序曲第2番の勢いは、クレンペラーの棒ならでは。本当に素晴らしい音楽であり、稀代の名演奏の一つであると僕は思う。

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