峻厳さの中に垣間見える官能。
リヒテルのバッハは、四角四面の堅牢な型を超え、どちらかというと円い、宇宙的拡がりを明示する。そう、ともすると男性的な響きに終始するバッハにあって、何と女性的な音がするのだろう。
あらゆる芸術はLiebeswerbungである。口説くのである。性欲を公衆に向って発揮するのであると論じている。そうして見ると、月経の血が戸惑をして鼻から出ることもあるように、性欲が絵画になったり、彫刻になったり、音楽になったり、小説脚本になったりするということになる。金井君は驚くと同時に、こう思った。こいつはなかなかの奇警だ。しかし奇警ついでに、何故この説をも少し押し広めて、人生のあらゆる出来事は皆性欲の発揮であると立てないのだろうと思った。こんな論をする事なら、同じ論法で何もかも性欲の発揮にしてしまうことが出来よう。宗教などは性欲として説明することが最も容易である。基督を婿だというのは普通である。聖者と崇められた尼なんぞには、実際性欲をperverseの方角に発揮したに過ぎないのがいくらもある。献身だなんぞという行をした人の中にはSadistもいればMasochistもいる。性欲の目金を掛けて見れば、人間のあらゆる出来事の発動機は、一として性欲ならざるはなしである。
~森鴎外「ヰタ・セクスアリス」(新潮文庫)P8
鴎外片手にヨハン・セバスティアン・バッハ。
少なくとも彼の世俗音楽を聴くにはちょうど良い。聖なる楽音を退け、ただひたすら奧妙なポリフォニーの海に溺れるのが良い。
僕は二人の見ていた絵の何物なるかを判断する智識を有せなかった。しかし二人の言語挙動を非道く異様に、しかも不愉快に感じた。そして何故か知らないが、この出来事をお母様に問うことを憚った。
~同上書P13
6歳のときの、無意識の性への嫌悪はすなわち目覚めと同義。
そして、13歳のときの劣等感。
それと同時に、同じ小倉袴紺足袋の仲間にも、色の白い眼鼻立の好い生徒があるので、自分の醜男子なることを知って、所詮女には好かれないだろうと思った。この頃から後は、この考が永遠に僕の意識の底に潜伏していて、僕に十分の得意ということを感ぜさせない。S子へ年齢の不足ということが加勢して、何事をするにも、友達に暴力で圧せられるので、僕は陽に屈服して陰に反抗するという態度になった。兵家Clausewitzは受動的抵抗を弱国の応に取るべき手段だと云っている。僕は先天的失恋者で、そして境遇上の弱者であった。
~同上書P33
表があれば裏がある二元世界にあって、意識の眼鏡が勝手に優劣を決めてしまうもの。
そんな光と闇の世界にあってリヒテルの弾くバッハはとても優しい。
とてもリラックスした雰囲気の感じられるライヴ。しかし、実際は(観客にも)相当の集中力が求められたコンサートなのだろうと想像できる。息つく暇もない緊張感は、各曲の後の遠慮がちな、しかし想いのこもった拍手に反映される。
それにしても、緩やかな舞曲の持つ安寧の表情の深さこそリヒテルの神髄ではなかろうか(例えば、BWV808のサラバンド!)。
さて読んでしまった処で、これが世間に出されようかと思った。それはむつかしい。人の皆行うことで人の皆言わないことがある。Pruderyに支配せられている教育界に、自分も籍を置いているからは、それはむつかしい。そんなら何気なしに我子に読ませることが出来ようか。それは読ませて読ませられないこともあるまい。しかしこれを読んだ子の心に現われる効果は、予め測り知ることが出来ない。若しこれを読んだ子が父のようになったら、どうであろう。それが幸か不幸か。それも分らない。
~同上書P97
すべてを垂れ流し的に開示することもない。しかし、せめて近いところには赤裸々に語れる勇気も要ろう。リヒテルのバッハには勇気を後押しする力がある。