ブルーノ・ワルターの身に起こったたび重なる悲劇。
一筋縄ではいかない人生であるにもかかわらず、否、それだからこそ彼の音楽には常に慈悲の心が刻印されるのだと思う。
エルザの死から立ち直らなければならないのに加えて、彼は8月にフランツ・ヴェルフェルの死にも見舞われたのである。しかもさらに悪いことに、ワルターとアルマ・マーラー・ヴェルフェルは、どちらもヨーロッパを逃れてカリフォルニアに住み、どちらも伴侶を亡くしたということで、結婚するつもりなのではないかという噂が12月には飛び始めた。ワルターが最近になってノース・ベッドフォード・ドライヴのアルマの家の隣家を買ったというのも、このような口さがないゴシップを煽るばかりだった。アルマは、ある朝に体を壊して横になっていると、『ロサンゼルス・タイムズ』の映画コラムニストのヘッダ・ホッパーが、結婚は間近と報じるのが耳に入ったと書いている。「この私はフランツ・ヴェルフェルを失って胸がつぶれているというのに、そんな私をさっさと再婚させることしか考えない悪鬼どもに腹が立って仕方がなかった」と彼女はうなる。ワルターはと言うと、ただ穏やかに「でもそんなひどいことでしょうか?」と彼女に尋ねただけだった―しかし結局は彼のマネジメントが公式見解を出して、噂を完全に打ち消した。
~エリック・ライディング/レベッカ・ペチェフスキー/高橋宣也訳「ブルーノ・ワルター―音楽に楽園を見た人」(音楽之友社)P421-422
血気盛んなアルマに対して、ワルターの態度は実に彼らしく、無関心を装う(?)中庸だ。彼はまさに良心の人だった。妻の死にも、また親友の死にもめげず、戦後まもなくワルターはニューヨーク・フィルとフィラデルフィア管弦楽団との活動を再開する。
その頃の録音は、確かに戦前のもの、あるいは後のステレオ録音などと比較して幾分力みの感じられる、ワルターにしては「自然さ」が削がれたものだけれど、彼の本性、嘆きの思いがむしろ隅から隅にまで刻印されるようで何だかとても哀しい。
ブルーノ・ワルター十八番の「田園」は、基本の造形はウィーン・フィルとのもの、あるいはコロンビア響とのものと変わりがない。しかし、前述のようにここにはほかの2つの録音にはない、ワルターの隠れた本心がある。やはり彼はいまだ癒えない悲しみを引きずっていたのだ。
ちょうど同じ頃書かれた手紙がある。
1月2日付けの貴簡を拝読して驚きました。そのなかで貴殿はフルトヴェングラーと私との間の葛藤を示され、かようなものにはかかずらわず、芸術のことを考えるよう私に警告されて、「最高の人間性」の義務につき訓戒を垂れておられます。
芸術のことを考えるように、私が警告されるいわれはないと信じますし、人間性の諸問題においては、自分でもはっきり聞こえる良心の声に、私をお任せ願わねばなりません。
(1946年1月16日付、神学博士アードルフ・ケラー教授宛)
~ロッテ・ワルター・リント編/土田修代訳「ブルーノ・ワルターの手紙」(白水社)P281
いかにも冷静を装うが、明らかにワルターの心は揺れているように見える。
人間の心は正直だ。そして、創造に嘘はつけないだろう。
第1楽章「田舎に到着したときの愉快な感情の目覚め」から何となく不安との闘争が垣間見える音(速めのテンポは焦燥感の表れか?)。また、第2楽章「小川のほとりの情景」はゆったりとしたワルターらしい理想的テンポで、大自然の尊さを美しく表現する(この録音で一番の出来)。そして、第3楽章「田舎の人々の楽しい集い」も、続く第4楽章「雷雨、嵐」もなんだか忙しなく、心を感じさせない外面的な音に陥ってしまっているのが残念だ。同じ意味で、終楽章「牧歌 嵐の後の喜ばしい感謝の気持ち」は浅い(指揮者の思いがオーケストラに十分通じていないのか、ちぐはぐな印象)。
感情の、心の安定を欠いた無理が「田園」交響曲を支配する。ただし、それゆえにこの録音はむしろ価値があると僕は思う。
ちなみに、シューベルトの「未完成」の方は、楽想が悲劇的な分、この時期のワルターの思念と合致しているようで、不自然さのない演奏になっていて美しい。