鋭い感覚がベースにあり、その上に鷹揚な理性が被う知的な音楽の再生。
エサ=ペッカ・サロネンの指揮するパウル・ヒンデミット作品を聴いて、そう直観した。
ヒンデミットの音楽の根底に流れるものは「道化」だとずっと僕は思っていた。それが、どんなにシリアスな作品であろうと、どこか大衆の感性を刺激する、楽しませようとする熱意溢れるポピュラー音楽の類であると僕は考えていた。
理知の極み。
カール・マリア・フォン・ウェーバーから主題を借りた「変容」という仰々しいタイトルの変奏曲は、それでもヒンデミット作品らしく諧謔的な要素が垣間見える。ただし、決して弾けず、全編を抑制し、どちらかというと「翳」の側面を強調する方法に終始する。それがまたヒンデミットの知性を正確に描き出しており、何だかとても神々しい。
あるいは、アックスを独奏に迎えた、いわばピアノ協奏曲である「4つの気質」は、主題と4つの変奏(シュタイナーによる「憂鬱質」、「多血質」、「粘液質」、「胆汁質」)から成る。
第1変奏「憂鬱質」は、文字通り内向性の強い、暗澹たる音調(特に管弦楽部)だが、その中にあってアックスのピアノは明快かつイマジネーション満ちるトーンを貫く(しかし、どうしても「思考の殻」を破ることができないというもどかしさがある)。また、スケルツォ的な愉悦の表情を保つ第2変奏「多血質」は、外へとどこまでも拡がる魔法の如くの解釈。そして、第3変奏「粘液質」は、緩徐楽章の役目を果たしており、音調は極めて安楽的。サロネンの棒はいかにも意志を逸脱した自然体。さらには、第4変奏「胆汁質」は、感情的でエゴイスティックな側面が強調されたスタイルながら、最後には解放、昇華される歌。
「画家マティス」(第1楽章「天使の合奏」、第2楽章「埋葬」、第3楽章「聖アントニウスの誘惑」)が素晴らしい。
1933年から1935年にかけて、ヒンデミットはオペラ《画家マティス》を書いた。ヴァーグナーの《マイスタージンガー》の聖なるドイツ芸術の精神を含んだ作品である。ルネサンス時代の画家マティアス・グリューネヴァルトの生涯にもとづいて、政治的・宗教的な混沌のさなかにあって、この農民反乱の指導者の言葉によれば、「民衆にとって根本である土地」に核心を見いだそうとする芸術家の孤独な闘いを描いている。
~アレックス・ロス著/柿沼敏江訳「20世紀を語る音楽2」(みすず書房)P335
交響曲の崇高な味わい深さはいかばかりだろう。
サロネンは瞑想する、そしてまた思考する。
「聖アントニウスの誘惑」と題された第3楽章の荘厳美。
そういえば、アンドレイ・タルコフスキーが死の直前に構想していた次作は「聖アントニウスの誘惑」をモチーフにしたものだったという。
たとえばヴェーダのような世界観を信じ、その世界観にみずからを委ねることで、安らいでみたくなることがある。東洋は西洋より真理に近いところにいた。だが、西洋が生にたいする物質的な要求によって東洋を食いつくしてしまった。
東洋音楽と西洋音楽を比較してみるがいい。西洋は叫ぶ、—これは私だ! 私を見よ! 私がどれほど苦しんでいるか、どれほど愛しているか聞いてほしい! 私はなんと不幸なのだろう、なんと幸福なのだろう! 私だ! 私のものだ! 私に! 私を! と。
東洋は自分自身について一言もいわない! 神のなかに、自然のなかに、時間のなかに完全に溶けこんでいる。みずからをすべてのなかに見出し、みずからのなかにすべてを見出している! タオの音楽。キリスト生誕より600年前の中国。
~アンドレイ・タルコフスキー著/鴻英良訳「映像のポエジア―刻印された時間」(キネマ旬報社)P357
タルコフスキーは限りなく真理に近づいていたことがわかる。
解脱直前と言っても良いだろう。彼の論を参照するなら、ヒンデミットの作品にはまだまだエゴが横溢するといえまいか。サロネンの指揮然り。
[…] 常に「私、私」と叫ぶのに対し、東洋は自分自身について何も言わないと断言した。至言だと僕は思う。 […]