
音楽というものが生ものであることをあらためて思う。
同じ曲目の同じ指揮者の演奏であっても、オーケストラが変わり、時期や場所が変われば演奏そのものから発露されるエネルギーはまったく異なる。演奏そのものの良し悪しはあえてここでは云々しないが、印象がまったく変わるのだから音楽は面白い。
それにはもちろん聴き手の状態の差異もあろう。音楽に限らず、芸術とはそれを鑑賞する相手がいなければまったく存在価値、存在理由の減ずるいわば「関係の芸術」なのだと思う。
ベートーヴェンの創作活動が、作品を出版し、公衆の手の届くところに譜面が渡ってはじめて完結するものだったことを考えると、彼は作曲にあたり常に聴く者を意識したことと思う。それゆえに楽想の萌芽から完成形を見せるまで長い期間と労力を要した。
時は1803年8月6日。目下は交響曲第3番「英雄」の作曲中、スケッチ帖には交響曲第6番「田園」の初期楽想も見られるそうだ。あるいは、同年10月22日には構想メモも残されているという(作曲には取り組んでいないが)。実際、交響曲第6番「田園」が完成するのは1808年夏頃であり、初演はその年12月22日の、アン・デア・ウィーン劇場での慈善コンサートにおいてであった。その間約5年!
興味深いのはベートーヴェンの自筆譜に付された各楽章の標題。それは、これまで僕たちが認識してきたスコアのそれとは異なる。すなわち、
第1楽章 田園に到着の際、人間にわき起こる心地よい、陽気な気分
第2楽章 小川沿いの情景
第3楽章 田園の人々の楽しい集い
第4楽章 雷鳴、嵐
第5楽章 牧人の歌—嵐の後の、快い、神への感謝と結びついた感情
~大崎滋生著「ベートーヴェン像再構築2」(春秋社)P694
情景ではなく情感、つまり人間の内なる感情が描かれていることが最重要点だろう。
・ベートーヴェン:交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」
クルト・ザンデルリンク指揮バンベルク交響楽団(1998.4Live)
以前、クルト・ザンデルリンクがケルン放送響を振ったライヴでの「田園」交響曲に異様な(?)感銘を受けた。しかし、一方、巨匠がフィルハーモニア管とスタジオで録音した同曲には正直今一つ感動が薄かった。それならば、初リリースとなったバンベルク響とのライヴはどうか。一番は、終楽章コーダ直前のクライマックス直後の、世界が何とも静謐な安寧の表情を持つ楽想に覆われる瞬間の、文字通り「神への感謝と結びついた感情」の静かな発露が聴きどころ。何と美しい、崇高な「瞬間(とき)」なのだろう。ここには世界と、宇宙と一つになったベートーヴェンのすべてが表現される。
一方、ドラティのドヴォルザークは明朗快活で溌溂とした作りで、エネルギーに溢れ、やはり素晴らしい。バンベルク響のいぶし銀の音響が何と映えるのだろう。そう、決して勢いだけではない柔らかくも優しい音色が世界を包み込むのだ。