
この魔術を解けるのは「共に苦しみて知に至る、汚れなき愚者」だけだ・・・、とグルネマンツが語っていたとき、静かな聖なる森で何者かが湖の白鳥を射落とします。引っ立てられた若者に、グルネマンツは名前などいろいろと尋ねますが、彼は母の名をヘルツェライデと答えるだけで何も知りません。グルネマンツはこの若者を愚者とみなし、かすかな望みを抱いて聖杯の城に連れて行くことにしました。
~井形ちづる訳「ヴァーグナー オペラ・楽劇全作品対訳集2―《妖精》から《パルジファル》まで―」(水曜社)P292
知識はそも足かせとなり得るが、何も知らないことこそ最大の武器、否、賜物なのかもしれぬ。ハンス・クナッパーツブッシュの「パルジファル」前奏曲(あるいは抜粋も)は、いつの演奏もおおらかで、筆舌に尽くしがたい崇高さ。
また、第2幕「花の乙女たちの情景」は、クンドリがパルジファルの覚醒を喚起する直前のお道化た音楽だが、こういうシーンにおいてもクナッパーツブッシュの棒は堂々たるもので冴える。何よりバイロイト音楽祭のリハーサルでの、巨大な音楽を創造する指揮者の悠然たる姿を記録した映像を髣髴とさせる第1幕「場面転換の音楽」の壮絶なエネルギー!
強めの音で開始される「死と変容」は、冒頭からゾクゾクするほど生々しい。かつてモノラルでリリースされていたものが、ステレオでついに陽の目を見たのである。ヴァイオリンのソロの艶めかしさは、パリ音楽院のものとは思えぬ鮮烈さ。相変わらず弦楽器はうねり、金管楽器は咆える。たぶん僕の感性が疎かったせいもあろうこれほど素晴らしい交響詩だったかと耳を疑うほどの出来(ふと思ったのだが、シュトラウスのクライマックス形成の方法は、実にシベリウスの方法に近い気がする。いずれにも焦らしの官能がある)。
一方、抑制された音がかえって美しい「ドン・ファン」の客観的演奏の素晴らしさ。
小さなトーニ・ブッデンブロークは、たいへん愛らしかった。年ごとにブロンドの色が濃くなった髪が、もちろんカールをされて、麦稈帽子の下から豊かにのぞき、少し突き出ている上唇が、灰青色のいきいきしている目の新鮮な顔に、きかん気らしい表情を与え、その感じは、小さなエレガントな姿にも、表われていた。トーニは、まっ白い靴下に包まれたすんなりとした脚を、弾力のある躍るような、自信にあふれた動かし方ですすめた。
~トーマス・マン作/望月市恵訳「ブッデンブローク家の人々(上)」(岩波文庫)P84
マンの情景描写は実に詳細で、読んでいて恥ずかしくなるくらいだが、シュトラウスの交響詩の描写も負けず劣らず繊細だ。ただし、クナッパーツブッシュは細かいことには決して囚われない。あくまで音楽を鷲づかみにし、大きく料理する。それでいて実に感動的なのである。