ガーディナー指揮オルケストレル・レヴォリュショネール・エ・ロマンティーク ベートーヴェン ミサ曲(1989.11録音)ほかを聴いて思ふ

心からのご挨拶をベートーヴェンにお伝えください。・・・彼と近づきになりたく思っていることを話してください。・・・たぶんあなたなら彼を勧めてカールスバートへの旅に出かけさせることができるでしょう。
(1810年6月6日付、ゲーテからベッティーナ・ブレンターノ宛)
大崎滋生著「ベートーヴェン 完全詳細年譜」(春秋社)P230

博識、というより、異様な視座の高さ、視点の奔放さ。
天才に共通する点は、そういうところだ。

われわれは自然のただ中に生きていながら、彼女のことを知らない。彼女は絶えまなくわれわれと話しながら、われわれに自分の秘密を打ち明けない。われわれは絶えず彼女に向かって働きかけながら、彼女に対してなんらの支配力をももたない。
自然はすべてを個性にもとづかせたように見えるが、個体など少しも重んじない。彼女は建設と破壊を繰り返し、彼女の仕事場にはだれも近づくことができない。

ゲーテ/木村直司訳「色彩論」(ちくま学芸文庫)P65-66

まるで老子の有名な一節のようだが、僭越ながら(下手のこの論に)一つ指摘できるとするなら、宇宙・自然が個体を決して軽んじているわけではないということ。それには、僕たち人間は謙虚であらねばならない。

自然は子どもたちとばかり生活している。しかし母親はいったいどこにいるのだろうか—彼女は比類のない芸術家である。いとも単純な素材から最大の対象物をつくり上げ、苦労のあともなく最大の完成にいたる—緻密な確実さを有しながらつねに何か柔弱なものでおおわれている。彼女の作品はいずれも独自の存在をもち、彼女の現象はいずれもはっきりと孤立した現実ではあるが、すべては一つをなしている。
~同上書P66

ゲーテの本懐。ただし、実際のところ、彼の神髄は詩にあろう。
イタリア旅行以後の創作である「海の静けさ」と「幸ある船路」。

「海の静けさ」
深き静けさ、水にあり、
なぎて動かず、わたつうみ。
あまりになげる海づらを
ながむる舟人(かこ)の憂い顔。
風の来たらん方もなく、
死にもや絶えし静けさよ!
果てしも知らぬ海原に
立つ波もなし見る限り。

高橋健二訳「ゲーテ詩集」(新潮文庫)P155-156

先述の論の通り、ゲーテの自然に対する畏怖の念が刻印される名詩。

「幸ある船路」
霧裂けて
空あかるみ
風の神(エーオルス)、
障りの結ぼれを解く。
風そよぎ出で
舟人(かこ)は勇み立つ。
急げ、いざ急げ!
波は分かたれ、
近づくや遠方(おちかた)、
早や陸(くが)の見ゆるよ!

~同上書P156-157

自然の動静がこれほどリアルに表現された例が他にあろうか。
1812年7月下旬、テプリッツにてようやくゲーテとの邂逅を果たしたベートーヴェンは、1814年末よりこの詩の音化を試みる。10分にも満たないこのカンタータは、革新的な響きを持つ隠れた名品である。

ベートーヴェン:
・シェーナとアリア「ああ、不実なる人よ」作品65(1796)(1991.11録音)
・カンタータ「静かな海と楽しい航海」作品112(1815)(1989.11録音)
・ミサ曲ハ長調作品86(1807)(1989.11録音)
シャルロッテ・マルジオーノ(ソプラノ)
カテリーナ・ロビン(メゾソプラノ)
ウィリアム・ケンドール(テノール)
アラスティア・マイルズ(バス)
モンテヴェルディ合唱団
ジョン・エリオット・ガーディナー指揮オルケストレル・レヴォリュショネール・エ・ロマンティーク

「静かな海」後半のモンテヴェルディ合唱団の絶唱が特に美しく、心に刺さる。
そして、(ミサ・ソレムニスの陰に隠れてあまり注目されることのない)敬虔なるミサ曲ハ長調の祈り。キリエ冒頭からベートーヴェンの優美な側面が強調され、魂にまで迫る。いかにもベートーヴェンらしい雄渾なるうねりのクレドが白眉だが、決して煩くならないのはオーケストラの透明感あればこそ。
ちなみに、ミサ曲は、エステルハージ侯が夫人マリア・ヘルメネギルトの聖名祝日のために委嘱したものだが、その初演(1807年9月13日)は演奏の乱れにより成果が上がらず、結果、夫人が気に入らず、侯は楽譜も献呈も受け取らなかったという。何とも不遇な作品である。

初期、中期、後期と、それぞれの時期のベートーヴェンの作風の変遷を感じとることのできる選曲の妙。こういうプログラム構成でコンサートが開催されたならぜひとも行ってみたいもの。

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