トスカニーニ指揮NBC響 ショスタコーヴィチ 交響曲第7番「レニングラード」(1942.7.19Live)

トスカニーニはわたしの交響曲をいくつも指揮して、わたしに「敬意」を払ってくれた。そのレコードもわたしは聞いた。なんの役にも立たないものばかりである。
ソロモン・ヴォルコフ編/水野忠夫訳「ショスタコーヴィチの証言」(中公文庫)P53

ショスタコーヴィチのトスカニーニに対する評価は低い。それはむしろ音楽作りよりも、その過程、すなわちオーケストラとのコミュニケーションのあり方、その横暴さ、低俗さに彼は憤っていたように思われる。

わたしに言わせれば、感嘆するのではなくて、憤慨すべきである。彼はオーケストラ員をどなりつけ、卑猥な言葉で罵倒している。嫌悪を催すほどに顔をしかめる。哀れなオーケストラ員はこのような無作法を耐え忍ばねばならず、そうしなければお払い箱になるのだ。それなのに、彼らはそこに「なにか」を見ようとさえしはじめる。
~同上書P53

ショスタコーヴィチは、トスカニーニがアメリカ初演を担った交響曲第7番についても否応なしに次のように貶している。

トスカニーニはわたしの第7交響曲のレコードを送ってくれたが、それを聞いたとき、ひどく腹が立ってならなかった。なにもかも、精神も性格もテンポも、すべて間違っているのだ。それは不快でぞんざいな、やっつけ仕事である。
~同上書P53-54

僕にはやっつけ仕事には聴こえない。いかに作曲者自身の評であっても、あまりに感情的過ぎるきらいもなきにしもあらず。なぜなら、実際その録音を耳にすると、音楽は実に喜びに満ち、しかも希望に溢れ、何より指揮者とオーケストラが一体となり、かの戦争交響曲を見事に表現し尽くしている様が手に取るようにわかるからだ。旧ソ連の指揮者の、どちらかというと感傷的で主観的な(ローカルな)演奏よりも、むしろ勝利に向かうべく人心を鼓舞するような喜びを直接的に(インターナショナルに)、そして客観的に分かち合うようなその方法に僕は共感する。終演後の聴衆の喝采も凄まじい。

・ショスタコーヴィチ:交響曲第7番ハ長調作品60「レニングラード」
アルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC交響楽団(1942.7.19Live)

スタジオ8Hでの放送録音。戦時中のものにしては音は聴きやすい。
いかにもトスカニーニ流の、灼熱の、またカンタービレに満ちた最高の音楽が再生される。少なくともここには音楽への愛がある。トスカニーニは、ショスタコーヴィチの音楽を決して見下してはいない。緊張感と集中力に富み、音楽は推進力をもって第1楽章アレグレットから終楽章アレグロ・ノン・トロッポまで一気呵成に紡がれる。何という感情の爆発よ。

ドイツの進撃に打ち勝ったレニングラード市民に捧げられたこの作品のアメリカ初演をめぐっては、トスカニーニとストコフスキーとが争った。もともとはストコフスキーがアメリカ初演を目指していたが、NBCはトスカニーニに振らせたいと考えた。そこでトスカニーニはスコアを読み、自分が指揮することを決意した。トスカニーニは「イタリアのアンチ・ファシズムの老指揮者がロシアのアンチ・ナチスの若い作曲家の作品を演奏するのは興味深いことです。今その演奏は特別な意味を持ちます。若い君ならショスタコーヴィチの新しい交響曲を初演するチャンスはいくらでもあるでしょう」などとストコフスキーに手紙を書いて、彼を説得しようとしたのであった。
山田治生著「トスカニーニ―大指揮者の生涯とその時代」(アルファベータ)P236-237

トスカニーニの言葉には信がある。

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