驚くべき首尾一貫性でもって、彼の内なる生は、あの幻のような森の中の幼児の一場面へと舞い戻ってゆくのであった。彼の決別の辞、すなわち《大地の歌》の中にあるのは、森の中に待っている童にすでにその萌芽のあったあの哀愁に満ちた遙けき沈潜が実った果実ではなかったか? かかる境界を彼の地上の存在は経巡り、彼のしたためた手紙の数々は彷徨うのである。感傷的な芸術家の人生を妙に好むところから人々は、グスタフ・マーラーに偉大な悲劇の人という刻印を押したがる。これは誤謬である。
(アルマ・マリア・マーラー「1924年版書簡集への序文」)
~ヘルタ・ブラウコップフ編/須永恒雄訳「マーラー書簡集」(法政大学出版局)xii
アルマの言葉は、ともすると大袈裟であり、また(自身を弁護するべく)美化された様相を示すものだが、マーラーの性質とは確かにそういうものだったのかもしれない。彼女は次のように続ける。
彼は、快活で、活発で、エネルギーに満ちていた。芸術家につきものの何よりの苦悩、すなわち自らへの天分への疑いすらも、めったに彼を襲うことはなかった。襲ってもじきにまた解放した。彼は自らの力を信じていた。信じなければならなかった。というのも、彼の短い一生は、ひとつの比類なき漸強(クレッシェンド)であったからだ。
~同上書xiii
アルマの、まさにこの言を体現するような「大地の歌」。
一分の隙もない(情に揺れない)細密画の如くの「大地の歌」。
何より管弦楽のスマートで切れのあるトーンに痺れる。
その上、独唱者に、アルトに代わってバリトンを起用した版を使用しているにもかかわらず、音色は決してモノトーンでなく、むしろ高度なグラデーションを誇る音を発するのだから素晴らしい(ドミンゴの歌唱はオペラ的だといわれるが、僕はそれが功を奏し、他に類を見ない「大地の歌」が生まれたのだと思う)。
スコウフスの歌う第6楽章「告別」の絶唱が美しい。
そして、特に、管弦楽のみによる間奏部の澄んだ、明るい寂寥感。ここには、マーラー自身が内に秘めていた「自己への確信」がれっきと存在する。サロネンには間違いなく作曲家への共感があろう。
私はとても勤勉でした(ここから、私がかなり「順応した」ことがおわかりでしょう)。全体はどう命名したものか、自分でもよくわかりません。素晴らしい一時期に恵まれたわけですが、これはおそらく今まで作曲した内で最も個人的なものでしょう。それについては会ってお話できるかもしれません。
(1908年9月初、ブルーノ・ヴァルター宛)
~同上書P364
手紙の言葉通り、「大地の歌」が最も個人的なものだとするなら、サロネンのこの解釈は間違っているのかもしれない。あまりにも主観を排除した、客観的な演奏は、(残念ながら)マーラー自身を超える。だからこそある意味普遍的なのだと僕は思う。
素敵な一枚だ。