アンドラーシュ・シフ ピアノ・リサイタル

schiff_110215.jpgあー、長かった。
そんな印象。瞬間瞬間はとても美しい旋律に包まれ、得も言われぬ恍惚感に襲われながらも、東京オペラシティ・コンサートホールの固い椅子に長時間座り続けるのが少しばかり苦痛になり、ふと我に返る、そんな繰り返しだった。

シューベルトの音楽、それも最晩年に作曲された作品が集められた一夜、満員の聴衆が固唾をのんでピアニストのパフォーマンスを見守った。それにしても見事な集中力。聴いているこちらがついつい緊張の糸が途切れてしまうのに、演奏する側のあのスタミナ、エネルギーは一体どこから来るのだろう。 

東京オペラシティ・コンサートホールでのアンドラーシュ・シフ ピアノ・リサイタル。アンコール2曲が弾かれ、すべてが終了したのが22時ちょっと前。休憩を入れて3時間足らずの長丁場。柔肌をなでるような弱音と、強烈な打鍵の強音が錯綜し、メルヘンのような、19世紀初頭のウィーンのサロンの面影をほんの少し感じさせてくれるひとときだった(本当はもっと小さなホールで直近に音を感じたかったけど)。


2011年2月15日(火)19:00開演
シューベルト・プログラム
・楽興の時D780/作品94
・即興曲集D899/作品90
休憩
・3つのピアノ曲D946(遺作)
・即興曲集D935/作品142
~アンコール
・ハンガリーのメロディロ短調D817
・グラーツのギャロップD925
アンドラーシュ・シフ(ピアノ)

前半の2つの曲集から、もうすでにシフの安定した技巧に裏付けられた晩年のシューベルトの(といっても30歳前後!)諦念と、まさかあと何年かで死んでしまうとは思っていなかったであろう希望の念が交互に現れる。その間、2階席で目を閉じながら、僕の脳裏に浮かんだのは過去の記憶。逃れられない、忘れかけていた思い出が蘇る。
それにしても、これらの音楽の何と美しいことか・・・。
特に、2つの即興曲集はシューベルトの残した作品の中でも屈指の名曲だと思うが、シフはこれら性格を異にした8曲をいとも簡単に、それぞれ説得力を持って表現する。第3曲変ト長調など、もう居ても立ってもいられぬほどの匂いに満ち満ちていた。

前半が「過去」であるなら後半は「未来」だ。そう、明るい未来・・・。遺作となった3つの小品も作品142の即興曲も、どれもが執拗な繰り返しの中で、生を謳歌する力が漲る。寂しさと孤独感と、そして音楽をする喜びと・・・。ヘ短調の第4曲が終わった後の聴衆の熱狂的な拍手喝采の凄さよ。

アンコールの2曲も初めて耳にするが最晩年の作。どう聴いても、未来への希望しか感じられない音楽たち。やっぱりシューベルトはまさか自分がそんなに早くに亡くなるとは思ってもいなかったのだろう。

この公演は、昨年10月と今年1月に相次いで亡くなったシフの実母と義理の母の思い出に捧げられている。祈りのシューベルト・・・。


2 COMMENTS

雅之

おはようございます。
アンドラーシュ・シフを皆さんが絶賛する声には、1ミリの疑念も抱いておりません。彼ののバッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、シューマンは、常に信頼に足ると信じています。私も実演は何回か聴きましたが、いつも感銘を受けて帰っています。また、シューベルト:即興曲集D899/作品90は、1980年代初頭に発売された彼が弾いたLPレコードが、昔大好きで、思い出が数多く詰まっています。
>(本当はもっと小さなホールで直近に音を感じたかったけど)。
そうでしょうね。私も、特に愛知とし子さんによる、ピアノにとって適正な空間での実演を聴くようになってから、大ホールでのピアノ・リサイタルは興味が無くなりました。特にシューベルトの場合は、演奏者と聴き手がインティメートさを保つ距離の確保が、絶対・必要条件だと思います。
>前半が「過去」であるなら後半は「未来」だ。そう、明るい未来・・・。遺作となった3つの小品も作品142の即興曲も、どれもが執拗な繰り返しの中で、生を謳歌する力が漲る。
シューベルトの音楽は、ピアノ曲でも、弦楽五重奏曲のような室内楽でも、交響曲「ザ・グレート」でも、本質的に《ミニマル・ミュージック》であり《環境音楽》なんだと思います(ブルックナーにも似たところがありますね)。昨日のマニュエル・ゴッチング「E2-E4」と朝吹真理子著「きことわ」の話題にも繋がるんですが、執拗な繰り返しの音楽が、過去の記憶を呼び覚ます効果って、確かにありますね。
音楽における執拗な繰り返しとは、心臓の鼓動やセックスといった、何十億年もの太古の昔から我々生物のDNAが連綿と持ち続ける「生」や「性」や、さらには「転生」の、根源的記憶さえも、呼び覚ましているのかも知れませんね。
 

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
シフの一糸乱れない集中力には舌を巻きました。
しかし、余程のシフ・ファンかシューベルト・ファンでない限り途中で緊張の糸が切れてしまいます。
あと、座席も2回の左側後方でしたので、そういう問題もひょっとするとあるかもしれません。
>特にシューベルトの場合は、演奏者と聴き手がインティメートさを保つ距離の確保が、絶対・必要条件だと思います。
同感です。
>本質的に《ミニマル・ミュージック》であり《環境音楽》なんだと思います
なるほど、そうですね。そういわれると理解できます。
>音楽における執拗な繰り返しとは、心臓の鼓動やセックスといった、何十億年もの太古の昔から我々生物のDNAが連綿と持ち続ける「生」や「性」や、さらには「転生」の、根源的記憶さえも、呼び覚ましているのかも知れませんね。
納得です。昨日も、あるミーティングで赤ちゃんの聴覚の話になりました。人間はもともと「絶対音感」を持っているらしいですね。それと、赤ちゃんにとってはある限られた周波数領域が心地良いとのこと。
京都大学の山極先生が、コンゴ・ギブ地方の民謡をベースに「ゴリラとあそぼう」という歌を作られ、絵本と一緒に広めていこうとされているようなんですが、それが単一なリズムで低音域のメロディの執拗な繰り返しなんですよね。しかし、いっぺんに覚えてしまい、妙にこれが心地良いのです。
「音浴」のヒントはアフリカの土俗音楽にあるのかもしれないと思った次第です。

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