この時期のベートーヴェンの心境を見事に刻印するのは、緩徐楽章とフーガ。
崇高な精神の営みと、そこから生まれる安息の音。緊張と緩和の狭間を揺れ、音楽はどこまで永遠に昇り詰めて行く。
至るところに革新の種が散り蒔かれ、聴く者をただ翻弄する。確かに作曲当初、公衆には理解し得なかっただろう作品だ。
晩年のベートーヴェンは、インド哲学に執心した。
ここにこそ、彼が至った思想、創造の根源があるように僕は思う。
聖バガヴァットは告げた。—
あなたは不満がない。そこであなたに、この最高の秘密を説こう。理論知と実践知とを。それを知れば、あなたが不幸から解脱できるような。
これは王者の学術、王者の秘密、最高の浄化具である。それは直接的に理解され、教法にかない、容易に実行でき、不変である。
アルジュナよ、この教法を信じない人々は、私に達することなく、死と輪廻の道において回帰する。
この全世界は、非顕現な形の私によって遍く満たされている。万物は私のうちにあるが、私はそれらのうちには存立しない。
しかも、万物は私のうちに存しない。見よ、私の神的なヨーガを。私の本性は万物を支え、万物を実現するが、万物のうちには存しない。
~上村勝彦訳「バガヴァッド・ギーター」(岩波文庫)P80
間違いなくベートーヴェンは解脱を希んだ。
そして、例えば「バガヴァット・ギーター」にその解を求めたが、残念ながらそこには真理はなかった。否、たとえ仮にあったにせよ、それを得る手段がなかったのである。
ベートーヴェンの苦悩の発端はそこにある。一代につきたった一人に脈々と引き継がれてきた法を欲したが、残念ながら彼は出逢うことができなかった。何という悲哀。
音楽は、調和と混沌の間を往来し、七転八倒する。
1825年11月完成。
第5楽章カヴァティーナから終楽章大フーガに至る音楽の精緻な試みと展開が何と美しいことだろう。そして、最盛期のスメタナ四重奏団の一糸乱れぬアンサンブルと人間味溢れる温かな音色が、僕たちを夢の世界へと誘ってくれるのだ。嗚呼、この世はすべて幻。確かにベートーヴェンは真理を見抜く手前まで辿り着いていたのだろうと思う。美しい。
それにしても、ベートーヴェンが、大フーガの不評により新たに創作した新終楽章の簡潔でありながら心の芯にまで届く喜びの歌の素晴らしさ。
おじゃまします。このCDを聴いてみました。いつ聴いても「カヴァティーナ」楽章は涙が出そうです。でも、演奏カルテットによって印象とか肌触り(耳触り?)がずいぶんちがうものだな、と今さら初めて思いました。スメタナの緻密だけど暖かか感じ、木綿の肌触りのような…を感じました。それにしてもベートーヴェンがインド哲学に興味を持っていたのは本で読んで知っていましたが、「バガヴァット・ギーター」の一節を目にしたのは初めてです!世界を満たす偉大なる精神のようなものと音楽を通して一体化しようとしていたように思えるベートーヴェンなので、惹かれるものがあったと思えます(私の理解力では無理ですが)。大フーガにその影響があるのでしょうか。あまりに怪物的です。
ロマン・ロランの書いた本によると、12番カルテットの次に15番が作曲され、連続して13番が着想されたので、15番と13番の第1楽章は関連性があるのだそうです。そしてベートーヴェンの書いた楽想メモを調べると、まず1楽章と大フーガが形を取り、その間を繋ぐべく他の楽章が考えられた、とあります。なので、13番にとって大フーガは欠くべからざるものだったと思われるのに、人に長すぎると言われてあっさりあきらめて替わりの楽章を作ったのですねぇ。不思議です。カヴァティナのあとはやはり大フーガが合うと思うのですが・・・そこはもっとロマンロランを読み進めればわかるのかもしれません。 スメタナ・カルテットと「バガヴァット・ギーター」をありがとうございました。
>桜成 裕子 様
ベートーヴェンはいつも未来にいたんだと思います。
あの時代の西洋でいち早くインド哲学に興味を持つのですからある意味異常です。(笑)
ちなみに、ワーグナーもショーペンハウアーの影響で晩年には仏陀に興味をもって研究していますが、真の天才はいつも未来にあるのだと思うのです。
ということで、大フーガも早すぎたのでしょうね。
200年前の一般大衆には到底理解できなかったと思います。
それに、新終楽章も、一見簡潔なわかりやすい音楽にまとまっておりますが、これはこれで完全な音楽に昇華されていますよね。カヴァティーナから大フーガという流れも良し、カヴァティーナから新終楽章も良し、ということで、実に懐の深い作品だと僕は思います。
いつもありがとうございます。
実は私も200年前の人と同じく、大フーガがよくわかりませんのです。迫力と緊迫感、深淵をのぞきこむような感じがします。それはそれですごい曲だ、と思うのですが、代替え終楽章の方はどこかお気楽でおざなりな印象を持ち、もしかしてベートーヴェンは大フーガの値打ちがわからない俗人たちに嫌気がさして、「これなら文句はないだろう!」と投げやりに作ったのではないか、と密かに思っていたので、ここに書かれている「一見簡潔なわかりやすい音楽にまとまっているが、これはこれで完全な音楽に昇華されている」とのお言葉に、恥じ入る次第です。じっくり聴いてみます。
>桜成 裕子 様
大フーガは難解といわれますが、ミサ・ソレムニス同様ツボを押さえればあっという間に愛聴曲になると思います。とにかく繰り返し聴いてみてください。あと、大フーガと新終楽章とは、第5&第6及び第7&第8交響曲のように対で生まれた作品と同じく、外見は異なれど内側には共通する魂が潜みます。並行して聴かれると良いと思います。