トマーシュ・ネトピル指揮読売日本交響楽団第593回定期演奏会

菊地信義(76)にとって、本はなによりも「触る物」だという。1万5千冊もの本を手がけた装丁者。装丁をアートにまで高めた世界は、ドキュメンタリー映画「つつんで、ひらいて」になった。
「たとえば『愛』といっても、今日恋人が死んだ人と、今日初孫が生まれた人で意味は違う。一人ひとりに具体的な意味がある。意味と印象の織物が言葉という物であり、それを盛る容器が本。本は物でなければならない。言葉の多義性を盛る容器です。
容器だから、触感が大事だ。

「現場へ!」
~2019年11月29日付朝日新聞夕刊

一人ひとりに具体的な意味があり、印象が違うのは言葉だけでなく、音楽もそうだ。
「死」というものを正面から捉えた作品があれば、本人の意識しないところで、「死」に囲まれた作品もある。

モーツァルト、死のわずか3ヶ月前に完成した作品、歌劇「皇帝ティートの慈悲」序曲には、死の印象の一かけらも見当たらない。それはそうだ。35歳のモーツァルトが、まもなく自分が死を迎えるとは思ってもみなかっただろうから。音楽は喜びに溢れる。
トマーシュ・ネトピル指揮読売日本交響楽団による鮮烈なモーツァルト。折り目正しいテンポで、軽快なアーティキュレーション。生き生きと希望に満ちる音楽は見事に躍動した。

度肝を抜かれたのはリゲティの2曲。
ケラス独奏の無伴奏チェロ・ソナタは、たった一つの楽器がこれほどまでに豊饒な深みのある音を放つのかと思わせるほどのパワーとエネルギー。ミクロコスモスの精緻と官能を見事に表現した歌に僕は聴き惚れた。そして、傑作チェロ協奏曲。実演で聴いてはじめてその意味が腑に落ちるマクロ・コスモス。ppppppppの記号で指示された第1楽章冒頭に戦慄を覚えた。その後も音楽は終始弱音で、無限の世界を映し出す。宇宙が大爆発しての、残った塵の如くの、ほとんど細密画の音世界。オーケストラにも独奏者にも相当の緊張感をもたらすであろう難曲が美しく奏でられる様に僕は思わず興奮した。音楽の絶大なる力、特に、弱音の強力な力を思った。何とすごい作品なのだろう。

読売日本交響楽団第593回定期演奏会
2019年11月29日(金)19時開演
サントリーホール
ジャン=ギアン・ケラス(チェロ)
白井圭(コンサートマスター)
トマーシュ・ネトピル指揮読売日本交響楽団
・モーツァルト:歌劇「皇帝ティートの慈悲」K.621~序曲
・リゲティ:無伴奏チェロ・ソナタ
・リゲティ:チェロ協奏曲
~アンコール
・J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲第1番ト長調BWV1007~サラバンド
休憩
・スーク:アスラエル交響曲ハ短調作品27

ケラスのアンコールも実にふくよかな音で素晴らしかった。
そして、15分の休憩後の、ヨゼフ・スークのアスラエル交響曲。
師ドヴォルザークの死に衝撃を受け、作曲するも、その最中、今度は妻オティリエが若くして逝去するという二重の悲しみに見舞われたスークが書き下ろした、絶望とそこから這い上がる希望の交響曲。
音楽は確かに冒頭から不穏だ。また、あまりにも人間的だ。

死というものに対する恐れは、生と死を区別するからだ。あるいは、死を永遠の別れと定義するからだろう。死は決して終りではないと僕は思う。
スークの音楽は、人間世界からの、あくまで現世からの死者への弔いを表現したものだ。だから、どうにも重く、世界が閉じている。
第1楽章アンダンテ・ソステヌート、厳かな冒頭から主部に入るや音楽は慟哭する。中心となるであろう第3楽章スケルツォが肝。サン=サーンスの「死の舞踏」を思わせる道化の音調が心に響く。第4楽章以降は亡き妻に捧げられたものだが、音楽は一層哀しみを増し、暗澹たる雰囲気を醸す(ただし、最後に安寧の様相を残し、ハッピーエンドで締めらえるのが救いか)。

今宵のコンサートのクライマックスは、前半のリゲティだろう。
残念ながらスークの交響曲には、崇高な感動を喚起する力はなかった。

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