私の人生は、音楽だけで成り立っているのではありません。私は多くのことに関心をもっています―文学、政治、芸術、世界で起こっていること、そして季節の移り変わりにも。人生において差し出されてくるすべてのものを吸収するには、静寂と時間が必要です。自然の素晴らしさを前にすると、もはや自分自身のことをそれほど重要とは思わないものです。私は専門バカではありません。もし私のシューベルトやブルックナーが、彼らが作ったように響いているとすれば、それは、私が自分自身に反省する時間を、つまり人間であるための時間を与えているからです。すべてのことが音楽へと流れ込んでいきます。そこにはすべてがあるのです。
~ヴォルフガング・ザイフェルト著/根岸一美訳「ギュンター・ヴァント―音楽への孤高の奉仕と不断の闘い」(音楽之友社)P367
ヴァントが観想生活を送るのには理由があった。
彼は人間であるための時間、自省の時間を大事にする。
そこから生まれた音楽は、かつては職人技の緻密なものであったのが、最晩年には、脱力の、抜け切った透明さを持つ、得も言われぬ歓喜を与えてくれるものになった。
最後の演奏会でのブルックナー「ロマンティック」は、賛否両論だ。老いゆえの不均衡、あるいは瑕に対しての非。しかし、そこにこそ大自然のゆらぎと一体になった人間の大いなる遊びが存在するのだとも僕は思う。それこそ是だ。
第1楽章冒頭を聴いて、物足りなさを感じる人も多々あろう。いや、むしろこの演奏の高貴さに拝跪する人もいるのかも。いずれにせよ老練の潔さがある。否、これほど赤裸々なブルックナーが他にあっただろうか。
とりわけ第2楽章アンダンテ,クワジ・アレグレットが美しい。何より観想生活で得た英知が刻印されるような静謐さ。また、第3楽章スケルツォも決して煩くならず、金管群の絶妙な咆哮がなぜか涙を誘う(思い入れたっぷりのトリオがまた素晴らしい)。
そして、白熱の終楽章は、これが最後とは思えぬ気概に満ちる。打楽器が地を這い、音楽がここぞとばかりにうねる。
ブルックナーの音楽は、雛形を同じくし、フレーズも変形させたものが別の作品に顔を出す、というように、聴きようによっては実に親しみやすく、わかりやすいものだ。
一方の、シューベルトの交響曲変ロ長調D485。
第1楽章アレグロから音楽は軽快に弾む。ここには最後とは思えぬ生命力が宿る。続く、憧れに満ちる第2楽章アンダンテ・コン・モートの優美。第3楽章メヌエットは、雄渾でありながら哀感秘めた表現。さらに、終楽章アレグロ・ヴィヴァーチェは、まるでモーツァルトのような喜び!
青年時代の私がモーツァルトに惹きつけられたのは、彼の音楽においては一切の個人的なものが後退しているという点であった。だからといって彼の音楽が情緒に乏しいというわけではない。むしろその正反対なのだ! そして私は歳を重ねれば重ねるほど、なおさら圧倒されるほどに、彼の音楽の純粋性を、その絶対的な自然さを感じるようになってきた。そうした自然さというのは、説明できるものではなく、むしろ内面的な尺度において、生物学的に「正しい」というほかないのである。
~同上書P19-20
おそらくヴァントの生み出すシューベルトの音楽についても同様。
僕もようやく真の意味でシューベルトがわかる年になってきたようだ。