リヒテル ベートーヴェン ピアノ・ソナタ作品109、作品110&作品111(1991.10Live)

スヴャトスラフ・リヒテルの弾くベートーヴェンの後期ソナタを聴いて、グレン・グールドのベートーヴェン論を僕は思った。

ベートーヴェン初期の古典的作品に要するのと同じ強固で不屈のエネルギーを発揮しても、後期作品は解釈できません。なのに、多くの人はその点の把握に苦しむようです。正直な話、後期作品はときに非常に単純で、作品109にみられるように、それ以前の同等の作品ほど展開していかないことが多い。むしろ後期作品の多くが備えているのは、沈思黙考の極みの瞬間から抽出された特別な簡潔性なのです。後期作品となると、力強いゲルマン的解釈に訴える演奏がきわめて多いのが実状ですが、作品がそれに持ちこたえられないのは、まさにこうした理由があるからです。
「ベートーヴェンの偉大さ」(1961年)
グレン・グールド、ジョン・P.L.ロバーツ/宮澤淳一訳「グレン・グールド発言集」(みすず書房)P134

そこにあるのは、まさに「沈思黙考の極みの瞬間から抽出された特別な簡潔性」だ。どのソナタのどの楽章にも静かな、心安らかな、聖なるときが刻まれる。

ベートーヴェン:
・ピアノ・ソナタ第30番ホ長調作品109
・ピアノ・ソナタ第31番変イ長調作品110
・ピアノ・ソナタ第32番ハ短調作品111
スヴャトスラフ・リヒテル(ピアノ)(1991.10Live)

常に音楽の一点に注がれる異様な集中力と、脱力の開放感こそリヒテルの演奏の粋。
開放的とはいえエネルギーは外向的でなく、むしろ内向的なもの。それゆえに、不思議な説得力を持つ。例えば、ソナタホ長調作品109第3楽章アンダンテ・モルト・カンタービレ・エド・エスプレッシーヴォの優しさと美しさ。
あるいは、ソナタ変イ長調作品110第1楽章モデラート・カンタービレ・モルト・エスプレッシーヴォの天使の歌に聴こえる母性に涙がこぼれる。
そして、ソナタハ短調作品111第2楽章アリエッタの、一音一音を丁寧に、語りかけるように奏する、明暗を超えた中庸美。

ここには不思善、不思悪という、「無門関」にある思想が浮かび上がる。
リヒテルは思考しない、感情に溺れることもない。
ここにあるのは、感覚の上に成立するベートーヴェンの真の魂の音だけだ。間違いなく天才だと思う。

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2 COMMENTS

桜成 裕子

おじゃまします。 このCDを聴いてみました。
グールドの後期作品論も的を得ているなぁ、と納得です。そのページを開いてみました。「今日でさえ、後期の弦楽四重奏曲やソナタはほとんど理解されていません。」というところはグサッときましたが、「沈思黙考の極みの瞬間から抽出された特別な簡潔性」を愛すればこそ、グールドはゴールドベルクの次にこの3曲を録音したのでしょうか。弦楽四重奏曲はともかく、ピアノソナタ3曲は、本当に「静かな、心安らかな、聖なるときが刻まれ」ていると感じます。それはベートーヴェンが「強固で不屈のエネルギーを発揮」して運命と闘っていた時を通り抜けて達して得た境地のように思えます。「ベートーヴェン再構築」の中に、この3つのソナタがアントーニエとマクシミリアーネのブレンターノ母娘に献呈されていることは、それらの曲の内容、曲想から二人にふさわしいと思えることからも裏付けられる、というようなことが書いてあったので、正にそうなんだろう、とも思いました。私は多分に情緒過多の傾向があるからだと思いますが、リヒテルの演奏は「思考しない、感情に溺れない」分、少し物足りなさを感じます。グールドの演奏にはやはり特別な歓びや輝きが感じられます。
 リヒテルの演奏、グールドの著作に接することができ、感謝します。

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岡本 浩和

>桜成 裕子 様

ベートーヴェンの後期作品に関し、特に最近はどんな演奏であれ、筆舌に尽くし難い美しさを感じます。作品そのものに答があるのでなく、演奏者が自身の中の神仏をいかに信ずるかを問われているように思うのです。偉大なるものへの感謝の念があれば、どんな演奏も素晴らしいと思わせる器の大きさこそベートーヴェンの最大の武器なのでしょう。
いつもありがとうございます。

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