マッケラス指揮スコットランド室内管 モーツァルト 「皇帝ティートの慈悲」K.621(2005.8録音)

1791年10月7日と8日に書かれたと思われるモーツァルトの手紙。

彼らはみんな、ぼくのドイツ語オペラのすばらしい評判を聞きつけている。
それよりも、ぼくのオペラがあんなにも熱い拍手で迎えられた初演の晩、その同じ晩に、プラハでは《ティトゥス》が異常な喝采を受けて最後の幕を下ろした。—どの曲も揃って拍手を浴びたのだ。—ペリーニ(セスト役)がいつになくうまく歌った。—イ長調の二重唱(アンニオとセルヴィアリ)で、二人の女声歌手がアンコールされた。

高橋英郎著「モーツァルトの手紙」(小学館)P470

最晩年のモーツァルトの、生きることと生活することの狭間での愉悦と安息の思いが垣間見える。それにしても「魔笛」と「ティトゥス」が同時期に生み出された奇蹟よ。

依頼者は、プラハに住む興行師ドメニコ・グァルダソーニだった。
モーツァルトは、「魔笛」の作曲を中断してまでその依頼を受けた。通常の2倍の金額でのオファーだったゆえ。

歌劇「皇帝ティートの慈悲」は、単なるパンのための仕事であり、決定的なシーンに欠ける作品だと侮るなかれ。少なくともこの時期のモーツァルトの音楽は、やっぱり次元を超える。

直前の9月に、かの「レクイエム」を作曲しながら書いたとされる謎の手紙。果たして本人のものかどうかは疑わしいが、まるで数ヶ月後を予言するかのような文面に、モーツァルトが天と通じ合っていたのかと思われるほど。しかし、それはあまりにも出来過ぎだ(たぶん誰かの創作だろう)。

「魔笛」で善悪二元の世界を超えることの意味と意義を説き、「ティート」ではすべてを赦す、人間の業の解決策を提示する。とても偶然とは思えない「悟り」への道標。 本人に意図はない。しかし、そこには明らかに天の配剤のような力が働いている。
「ティート」の筋は、一般にはあまりにも現実離れした寛容さに嘘臭さを感じるようだが、未来の人類への肯定的な警告として捉えてみると、何と面白く、そしてリアルに音楽を堪能できることか。間違いなくモーツァルトの本性は、神の如くの「慈悲」がすべてを救う鍵だとわかっていたのだろうと僕は想像するのだ。
「視座を上げよ!」と、黄泉の国からモーツァルトが叫ぶ。

・モーツァルト:歌劇「皇帝ティートの慈悲」K.621
ライナー・トロースト(ティート・ヴェスパジアーノ、テノール)
マグダレナ・コジェナー(セスト、メゾソプラノ)
ヒレヴィ・マルティンペルト(ヴィテッリア、ソプラノ)
リーザ・ミルン(セルヴィリア、ソプラノ)
クリスティーン・ライス(アンニオ、メゾソプラノ)
ジョン・レリア(プブリオ、バスバリトン)
スコットランド室内管弦楽団合唱団(マーク・ハインドリー合唱指揮)
ロナルド・シュナイダー(フォルテピアノ)
デイヴィッド・ワトキン(チェロ)
サー・チャールズ・マッケラス指揮スコットランド室内管弦楽団(2005.8録音)

モーツァルトが言及する第1幕第7番二重唱「ああ、これまでの愛に免じて許してください」は、確かに(アンコールされるに相応しい)可憐で美しい愛の歌。ミルンとライスの一つになる様に魂が喜ぶよう。

そして、最後の、ティートの管弦楽付きレチタティーヴォに続く、大団円たる第26曲合唱付き六重唱「あなた様は、真実、私をお許しくださいました、陛下」でのすべてを溶かす魔法。コジェナー歌うセストの官能(?)、そして、ティートを除く全員による讃歌は、ことによると「魔笛」の最後のシーンを超えるだけの力が漲る。
もちろんそれは、老マッケラスの棒の成せる業。
ピリオド的表現を駆使したその方法は、序曲から溌剌たるエネルギーに漲り、最晩年のモーツァルトの生命力を代弁する。素晴らしい出来だと僕は思う。

「慈悲」こそすべて。

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