交響曲第2番の第1稿1873年版をあらためて聴いて、第2楽章アダージョで独奏ヴァイオリンによって奏される箇所があり(第1稿1872年版にはなく、第2稿1877年版では廃止されている)、それがロジェストヴェンスキー指揮読売日本交響楽団による第5番変ロ長調(シャルク版)第2楽章アダージョの解釈のヒントになったのかもしれないと僕は思った。
明らかにブルックナー的でない後期ロマン派風の音調は、ワーグナー風の改訂版に相応しいもので、ロジェストヴェンスキーのセンスの良さに感動したのだが、そもそもブルックナー自身が当時そういうチャレンジをしていたのである。
アダージョ(第2稿ではアンダンテ)のオーケストレーションでいちばん興味深いのは、150小節(第2稿の149小節)から14小節にもわたってソロ・ヴァイオリンが全体をリードすることであろう。これはブルックナーの交響曲では極めて珍しいケースで、初演に当たって、特別なインスピレーションが湧いたのであろうか。だが、独特の魅力を持つとはいえ、やはり自分の音楽に合わないと考えたのか、ブルックナーは第2稿ではこれをやめてしまう。しかも第1稿に戻すのではなく、ヴァイオリン・パートにいっそう美しい装飾音型を弾かせるのである。
(宇野功芳)
~30CM-195-6ライナーノーツ
自身の創造力の赴くままに音楽を生み出すとき、ブルックナーの作品はあまりに革新的だった。周囲に理解を得られないこと多々。そのたびに改訂を繰り返す始末。確かに音楽が高度に洗練されていく様に舌を巻くものの、音楽そのものが持つ劇的な、そして赤裸々な、野生味は損なわれていったことが明らかだ。
1873年の初演を聴いたアルトゥール・ニキシュの、1919年の回想。
ハンス・リヒターのもとにあったフィルハーモニーの団員たちは、ブラームス擁護者側からの絶え間ない工作の結果―ブラームス自身は、私が彼について知っているとおり、この運動からは距離をおいていた―ブルックナーを好んでいなかった。そこでブルックナーの支持者たちはリーヒテンシュタイン侯爵に働きかけ、特別演奏会のための資金を調達した。この演奏会では、宮廷歌劇場の管弦楽団がブルックナーの指揮で、彼の第2番を演奏した。これはウィーンで響いた彼の最初の交響曲となった。私は、指揮台に立ったブルックナーが、われわれに語ったことを、今でもよく憶えている。「さあ、みなさん、好きなだけ、練習していただけます。私にお金を出してくれる方がおられますので」と。私はこの交響曲を弾きながら、たちどころに感動した。そして46年が経った今でも、私はこの曲にたいしても、また他の交響曲にたいしても、同じ感動を覚えている。
~根岸一美「作曲家◎人と作品シリーズ ブルックナー」(音楽之友社)P68-69
ブルックナーの音楽ははじめからわかる人にはわかるのである。
初期の荒削りなセンスと後期の落ち着いたセンスがうまくブレンドされた交響曲第2番ハ短調は傑作だと今さらながら思う。
宇宙規模の拡がりと視座の高さこそクルト・アイヒホルンの老練の業だろう。
しかも、(ブルックナーの思考のプロセスが見える化された)第1稿のfirst concept, 1872とpremière, 1873の両方の録音を試みた老指揮者の智慧に脱帽だ。
Cod. 19.474からただちにパート譜が書き写され、すでに10月にヴィーン・フィルハーモニーによって試演が行われたがこの作品は拒否された。しかし、1873年10月26日にブルックナーが指揮をした初演のときには彼らは熱演し、その結果この交響曲は大きな喝采を博した。このことに感謝してブルックナーは第2番をヴィーン・フィルハーモニーに献呈しようとしたが、果たされず、1884年にフランツ・リストに献げようとしたときも同様であった。こうして第2番はブルックナーのすべての交響曲のなかで献呈されなかった唯一のものとなった。
レオポルト・ノヴァーク(大崎滋生訳)
~ブルックナー交響曲第2番ハ短調(1877年稿)ミニチュア・スコア(音楽之友社)
ちなみに、1965年7月の、レオポルト・ノヴァークによるスコア序文にはそう書かれているが、まさに第2番の不評や批判、非難こそが、ブルックナーのその後の改訂癖の嚆矢となったのである。歴史をひもとく興味深さ、そして、人が人にあからさまに影響を受ける非情、しかし、そこには逆に、様々な葛藤とであるがゆえの新鮮さと革新さが垣間見える面白さ。
アントン・ブルックナーの醍醐味はそこにある。
これは必携の名盤。