朝比奈隆指揮大阪フィル シューベルト「未完成」&「ザ・グレート」(1999.7.18Live)を観て思ふ

渾身のフランツ・シューベルト。
強いて表現すれば「豪放磊落」。僕は朝比奈隆のシューベルトを2度聴いた。1度目は、阪神淡路大震災の直後、東京芸術劇場での都響定期での「未完成」と「ザ・グレート」。そして、2度目は、亡くなる2年前の、サントリーホールでの大阪フィル東京定期での同じく2曲。いずれもが目の覚めるような名演奏だった。

あれからちょうど20年の歳月が経過する。晩年の朝比奈に象徴的な、すっきり速めのテンポでありながら堂々たる風趣を醸すもの。まさに愚直な浪漫の調べ。映像で確認する限り、この日の朝比奈はいまだ生気溢れる立派な立ち居振る舞い。音楽は、どの瞬間も朗々と鳴り、土台の揺るがない、いかにもドイツ浪漫の匂い湧き立つ確固たるものだ。

苦悩のシューベルト。

さて、この調和の原理であるソナタ形式は、ベートーヴェンによってほとんど完成されつくしてしまった。だから、シューベルトが助教師時代に「ベートーヴェンの後でなにができる」と嘆息したとき、彼の頭のなかにあったのはソナタ形式のことだったのは間違いない。
ウィーンに生まれ育ったシューベルトが、ソナタ形式を中心として発展してきたウィーン古典主義音楽の影響を受けるのは当然で、彼の音楽もそれを抜きには考えられない。しかし、彼の先輩にあたるハイドンやモーツァルト、ベートーヴェンの時代と、彼が生を享けた時代とは微妙に異なっていた。

喜多尾道冬著「シューベルト」(朝日新聞社)P156-157

時代の変化の中にあり、また偉大な先達たちとの比較の中で、若き天才も自分独自の方法を編み出すのに相当の苦労があったことだろう。途中で放棄された作品が多いことがそのことを物語る。しかしながら、そういうトルソー作品であるがゆえの不完全の美学がそこにはある。何より「歌」がある。ちなみに、喜多尾道冬さんは、「未完成」交響曲に通底するエロスを指摘する。

さて、もう一度いわゆる《未完成》交響曲に目を向けると、そこから聴きとれるのはその悶々とした性的妄想である。この曲は1822年10月30日に作曲を開始されている。それはあの「酒、女、歌」のほぼ1ヶ月前にあたる。この時期に彼のエロスの願望が昂進し、それにもかかわらずその捌け口を見いだすことができず、音楽で表現することでカタルシス代わりにしようとしたのではなかったか。
~同上書P224

何とも大胆な推論だが、言い得て妙だ。ただし、朝比奈の最晩年の「未完成」交響曲は、エロスとはほど遠い、どちらかというと枯れた(?)アガペーに近い、平和な音調が特長だ。

シューベルト:
・交響曲第8番ロ短調D759「未完成」
・交響曲第9番ハ長調D944「ザ・グレート」
朝比奈隆指揮大阪フィルハーモニー交響楽団(1999.7.18Live)

後半の交響曲ハ長調「ザ・グレート」は、オーケストラの十分過ぎるほどの奉仕のせいか、指揮中の朝比奈にもしばしば笑みがこぼれるほどの会心の出来。例えば、第1楽章アンダンテ—アレグロ・マ・ノン・トロッポは、丁寧に反復されるが、速めのテンポ設定が功を奏してか、集中力途切れることなく、シューベルトの開放的な旋律が老巨匠の棒の下飛翔する。

この交響曲《グレート》は、ソナタ形式をとっているにせよ、これまでのウィーン楽派の交響曲と決定的な相違を見せている。ウィーン楽派の作品は時間的なドラマの展開、つまり起承転結を主軸にしていたが、シューベルトのこの交響曲では息のながいメロディや和音の厚い積み重ねによって、空間的な広がりが生み出されている。シューマンはこの楽譜を発見したときに、「天国的な長さ」と評したが、ここに実現しているのは、これまでの交響曲に特有の、時間に追われるようなせわしないドラマの展開に対し、天国のような広く明るい世界でのびのびと遊ぶよろこびである。
~同上書P266

喜多尾さんのこの論は、少なくとも当時、「ザ・グレート」のあまりの冗長さに辟易し、飽き飽きしていた僕に大いなるヒントをくれた。
朝比奈のこの日の演奏は確かに素晴らしかった。

朝比奈隆111回目の生誕日に。


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